2012年11月28日水曜日

憂国戦線


「このままでは日本はだめになる。そう思いませんか」小島が言った。
 小島は、三浦与志希とは自衛隊へ同期に入隊した友人だった。
 別の部隊に配属になってからは、ほとんど顔を合わせる機会もなかったのだが、三日前ふいに会いたいと連絡してきた。クリスマスを過ぎて、年の瀬も押し迫ったころだった。
 呼び出された場所は、三浦が所属する第一空挺団の習志野駐屯地からは少し離れた浦安の蕎麦屋だった。その座敷席で彼は待っていた。窓から東京ディズニーランドにあるシンデレラ城の青い尖塔が見えた。
 三浦が到着すると挨拶もそこそこに彼は、今の日本がいかにだめかということをまくし立てはじめたのだった。
 政治の腐敗、治安の悪化、文化の退廃など問題点をえんえん並べて後、ふたたび言った。
「このままでは日本は本当にだめになってしまう。誰かが何とかしなければ」
「何が言いたいんだ」
「われわれに協力して欲しい。すでに少なくない数の同志は集まっているのだ」
 小島がさらに言葉を続けようとするのを三浦はさえぎった。
「待て、この話は聞かなかったことにした方がよさそうだな」
「三浦、お前だってわかってるはずだ。今手を打たなければ、もう取り返しがつかなくなることを」
「お前の言いたいことはわかる。だがな、われわれが下手に動いたりしても、かえって収拾の付かない混乱に陥るだけじゃないのか」
「まあ、話だけでも聞いてくれ。おれたちは何もクーデターを起こそうなどというんじゃない。この国の国民に覚醒を促すべく呼びかけを行うだけだ」
「そんな話なら、おれは帰らせてもらう」と三浦は席を立った。「バカなことを考えるのはやめろ。今後、そんな計画をお前が進めていることがおれの耳に入ったら、その時は迷わず上官に報告するからな」
 そう言い捨てると、足早にその店を後にした。


 何事もなく年は明け、数日が過ぎた。
 習志野で訓練中だった三浦与志希のもとへ、一人の女性が面会を求めた。
 基地内の面会所で三浦を待っていたのは、見知らぬ女性だった。
 黒に近い紺に桜の花びらが散った模様の和服姿で、とても落ち着いた雰囲気だったが、顔を見るとまだ二十代らしい若い女だ。
「私は黒坂真理子といいます。今日はあなたにぜひお渡ししたいものがあってまいりました」
「な、何です。いきなり」
「これを」
 そう言って女が差し出したのは一冊の文庫本だった。表紙を見ると三島由紀夫『春の雪』とある。
 三島と言えば、市ヶ谷駐屯地に乱入して自決した作家ではないか。
「あなた、小島の差し金でこんなことをしているんですか。それなら無駄ですよ」
「いいえ、私はただ、この本をあなたに受け取っていただきたいだけです。他には何も望みません」
「ただ受け取ればいいんですね」と三浦はその本を手に取った。
「それでは失礼します」女は席を立った。
「待ってください。あなたは何者なんです」
「私は、根黒野の巫女」それだけ言って女は立ち去った。


 三浦は勤務を終えて官舎へ帰った。翌日からは短い休暇だった。
 彼はとくにすることもなく自室でくつろいでいた。ベッドに寝転んで、謎の女から手渡された『春の雪』のページを読むともなくパラパラとめくっていた。
 日頃、読書の習慣などまるでない彼だったが、その時はなぜか急に内容が気になりだし、あらためて最初のページから読み始めた。
 すぐにその物語世界へと引き込まれて、時間も忘れ読み続けていた。
 一気に最後まで読み通してしまった。そのころにはもう夜明け近い時間だった。
 内容は大正時代を舞台とした悲恋ものだった。だが、自分がなぜこのような小説にこれほど夢中になってしまったのか、三浦にはさっぱりわからなかった。
 彼は短い睡眠の後、昼前に目覚めた。外で簡単な食事を摂ってから書店へ行った。
 三島由紀夫の『春の雪』は『豊饒の海』という連作の中の第一巻だった。そのため二巻以降、『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の三冊を買ったのだった。
 部屋に帰ってさっそく読み始めた。第二巻は一巻の主人公が転生した青年で、右翼テロを題材としたその物語には三浦も共感し楽しめた。さらに、転生の神秘を追求した三巻、四巻も立て続けに読んでしまった。今まで、小説などさほど読むこともなかった彼が、一日のうちに三冊もの長編を読み終えてしまうとは、異常なスピードと思えた。なぜかはわからないが、読み始めると途端にその内容がスラスラと頭に入ってきて止まらなくなるのだった。


 翌日、三浦は浦安から地下鉄を東西線、南北線と乗り継ぎ、白金で下車した。閑静な住宅街を五分ほど歩くと目指す住所を見つけた。
 そこは古びているが高級そうなマンションだった。この中に黒坂真理子の住む部屋があるはずだった。彼女から渡された文庫本のあいだに住所を記したメモが挟み込まれていて、三浦はそれを知ったのだった。
 玄関のインターフォンで部屋を呼び出すと、女の声が答えドアが開かれた。エレベーターを五階で降りて彼女の部屋へ着いた。
「お待ちしていました。あなたが来るのを」女が言った。
 床の間に日本刀が飾られた和室へ通され、腰を下ろすと三浦は女に尋ねた。
「なぜ、私が来ると?」
「運命の導きなのです」
「どうゆうことですか。あなたは何者なのです?」
「私は運命に従うものです。三浦さん、あなたの生年月日を教えていただけますか」
「昭和45年12月2日ですが」
 それを聞くと真理子は驚いたように眼を見開いた。
「やっぱり、あなたなのですね」
「なんのことですか?」三浦は腹を立てたような口調で言った。
「差し上げた本は読んでいただけましたか?」
「ええ、読みました。続きの二巻から四巻までも自分で買って読みましたよ」
「それで、何かを感じませんでしたか?」
「さあ、確かに、何か言葉では言えませんが、とにかく一気に頭に入ってくる感じでした」
「あの本の中で、転生について語られていたことを憶えていますか?」
「ええ」
「人は死後7日から77日間、〈中有〉と呼ばれる期間を過ぎて再びこの世へ転生すると語られていましたね。つまり三浦さん、あなたはあなたの誕生日の7日から77日前に前に死んだ誰かの、転生であるかもしれないのです。そのころある事件で死んだ人といえば誰か思い浮かびませんか?」
「えっ、まさか」自分が生まれた年の事件なら、何かと気にする機会もあって記憶している。昭和45年11月25日に、三島由紀夫は市ヶ谷の自衛隊駐屯地で自決したのだった。
「そう、あなたは三島由紀夫の転生なのです」真理子は彼の目を見つめ静かに言った。
「ばかな。同じころに生まれた人間なら、他にもいくらでもいるじゃないですか」
「ええ、私があの本を渡そうとしたのは、あなた一人でありません。しかし、大半の人は受け取ってすらくれませんでした。わずかの期間の内に全四巻を読み終え、わざわざここまで私を訪ねて来てくれたのは、あなた一人なのです」
 そう言われれば、自分が長編四冊分の小説を、何かにとり憑かれたように一気に読んでしまった理由もわかる気がした。だからといって、三浦は自分の前世が自決した作家だなどとは、とても信じられなかった。
「三浦さん、私がこんなことを言うのは、あなたにある使命を果たして欲しいからなのです。あなたはそれができる立場にいるのです」
「何ですか。その使命とは?」
 真理子は黙って立ち上がると、床の間の日本刀を手に取った。
「これを」とその刀を三浦の前に差し出した。「関孫六。三島先生が自決に際して用いた刀です」
「どうしてそんなものがここにあるのです?」
「すべては運命に導かれているのです。さあ、受け取って下さい。そうすればあなたにも自分の運命がわかるでしょう」
 三浦はその刀を手に取った。
 その瞬間、彼は電撃に打たれたように、何ものかに全身を貫かれた気がした。
 そして彼は理解した。自分が今ここに在るのは、大いなる何かに導かれてのことなのだということを。
「わかりました。いや、自分が三島由紀夫の転生者であるのかどうかはわかりません。しかし、果たすべき使命があるのなら、それを果たしたいと思います。言って下さい、何を為すべきかを」
 こうして、黒坂真理子は彼にその使命を告げることとなった。
 日本人の精神を侵略しようとしている邪神クトゥルーと戦わねばならないのだと。
 彼女が語ったのは次のような事柄だった。
 日本はアメリカから文化的侵略を受けている。その担い手であるアメリカ企業はすべて、クトゥルーによって操られており、そればかりか米国の政治、経済さらには軍事行動までも全てはクトゥルーの意のままになっているという。
 もともと、北米大陸の原住民は独自の精神文化を育んでクトゥルーに対抗する術を知っていた。そのため、海底の邪神はより御しやすいヨーロッパ人を呼び寄せ、原住民を虐殺させた。つまり、アメリカ人の精神はその建国当初から完全にクトゥルーの支配下にあるのだった。
 現在、長年の文化侵略により精神構造が西欧人のそれに近くなった日本人もまた、クトゥルーによる侵略の脅威にさらされているのである。
 黒坂真理子は、先祖から受け継いだ古代中国からの口伝〈根黒野秘法〉により、その危機が迫っていることを予知していた。
 アメリカ資本のIT企業〈ライブクラフト〉社で、邪神クトゥルーを召喚する計画が着々と進行している。東京本社ビルで稼動テスト中の超高速大容量コンピュータ〈アル・アジフ〉によって実現するデジタル・データの情報の海へと邪神は降臨するであろうことを。
 それを阻止するのが、三浦与志希に与えられた使命だった。
 三浦は、真理子の部屋を辞去してマンションを出ると、携帯電話で友人を呼んだ。相手が出ると彼は自分の名を告げ、つづけて言った。
「小島、間違っていたのはおれの方だった。力を貸してくれ」


 翌月26日未明。夜のうちに各地から習志野駐屯地へ集結した自衛隊員47名は、日本刀と89式小銃で武装し、兵員輸送車6輌に分乗すると東京お台場のライブクラフト本社ビルへ乗りつけた。隊員らは社屋を占拠すると、玄関ロビーに社員を集め、アメリカからの侵略に対する霊的国防の必要性を訴える声明を読み上げた。そして、地下開発室に設置された超大型コンピュータを小銃の一斉射撃で粉砕した。その後、全隊員はその場で自害した。


 この反乱に加わった自衛隊員の家族は皆、突然の事件に衝撃を受けていたが、そのうえ、さらに困惑させられる出来事があった。遺族らは、誰一人として死んだ隊員との対面を許されなかった。遺体は損傷が激しいとの理由で、その日のうちに火葬されていたのである。


クトゥルー神話に基づく連作短編集『根黒野ノ巫女』第弐話

2012年11月25日日曜日

幻覚のためのサウンドトラック


 映画が終わると拍手がおこった。
 はじめはパラパラと、そしてすぐに暗い客席全体にひろがった。
 だが、額面どおりには受け取れない、と団精六は思った。上映前に舞台挨拶をした監督らがまだ劇場に残っていると承知して聞かせているのだから。プロデューサーが握手を求めてきた。団もその手を握り返し、つづけて劇場の支配人とも握手をした。
 その映画「妖霧の館2」は今日が初日。立ち見も出るほどの盛況で、上映中の客の反応もまずまずだった。
 映写機の横の特別席で彼らは、映画そのものよりも客席の反応に注意を払っていた。すでに一般向けの試写会である程度の感触は得ていたが、自分の演出に観客たちが笑ったり息をのんだりする様を眺めるのはやはりいいものだった。
 この作品は前作「妖霧の館」のパート2ということで宣伝されていたが、続編というよりはほとんどリメイクと言うべき内容だった。一作目は予算をぎりぎりまで切り詰めやっと通した企画で、手作りの特撮と素人同然の無名俳優を使い何とか完成させたものだった。
 劇場でのレイトショー公開はまったく客が入らず、あっという間に打ち切りになってしまった。団も一時はこれで監督廃業かと失意に沈んでいたのだが、ビデオソフトが発売されると、これがレンタル店では意外な人気を呼び、おかげでパート2の製作に漕ぎ着けたのだった。
 この「妖霧の館2」は一作目とほぼ同じストーリーだが、低予算のために断念していた描写を復活させ、役者もうまい人を揃えることができた。中でも妖術師役を、かつての特撮ヒーローものの悪役で知られる往年の名バイプレイヤーに演じてもらえたのは望外の喜びだった。
 また一作目の主演俳優には「2」では主人公の友人役で出演してもらい、特撮も極力CGにはたよらずチープな手作り感を残すことで前作からのファンへのアピールも欠かさなかった。
 成功を祝して一杯どうかというプロデューサーからの誘いを、団は車できているからと断った。
 帰る準備をしていると、劇場の係員がやってきた。
「監督、ファンの人がこれを」と封筒を手渡した。
 開けてみると中には手紙とCD-Rが入っていた。
 手紙の内容は以下のとおり。
 
 拝啓、団精六様。
 前作「妖霧の館」を見て以来、団監督の大ファンです。それ以前のビデオ作品などもすべて見させていただきました。どの作品も、他の誰にもマネのできない独特のテイストにあふれていて素晴らしかったです。
 「妖霧の館2」は、すでに試写会で拝見して、これで二度目です。監督自らが 手掛けられた脚本はもちろんのこと、各俳優の演技や、特撮などもこれまでで最高の出来栄えだと思いました。とくに、主人公が車ごと怪物に呑みこまれるラスト・シーンは、全く本物としか思えない迫力でした。
 ただ、ひとつだけ苦言を呈させてもらうならば、音楽には不満を感じます。
 すべてが本物の輝きを放つこの映画の中で音楽だけは偽物に思えました。
 私自身が音楽家志望であるために、この点だけは評価が厳しくなってしまったのかもしれません。
 ところで同封のCDですが、今回の映画のラスト・シーンへいたる霧の中のドライブをイメージしながら作曲した音楽です。映像のバックにこの曲を使ってもらえれば、あの映画はすべてが本当に、本物になることでしょう。
 将来、プロの音楽家になって団監督の映画で音楽を担当するのが私の夢です。その日の来るのを楽しみに待っています。
 
飯野敬二

 手紙を読み終え団は、よくあるファン・レターだと思ったが、音楽がけなされていることが気にかかった。今度の作品では日本の映画界でも一流の作曲家を起用し、いい仕事をしてもらった。他の要素と比べて音楽だけが劣るということは決してないはずだった。
 もっとも、この手紙の主は単に自分の音楽を売り込みたいがために、このような書き方をしただけかもしれなかった。そうだとすれば、録音された音楽のほうも、あまり期待できないなと彼は思った。


 劇場からの帰り道、団は愛車である旧型のフォルクスワーゲン・ヴィートルを運転して高速に乗った。
 そのうちに、自分の映画のために書かれたという曲を聞いてみたくなった。意外な掘り出し物という可能性もないとは限らなかった。
 封筒からCDを取り出すとプレイヤーに挿入した。
 まもなく、音楽が流れ出した。打ち込みでつくった音のようだった。平凡だなというのが最初の印象だった。
 プレイヤーの作動を確認し、前方へ視線をもどすと、路上一面に白い霧がかかっていた。
 団はあわてて演奏を止めた。なぜだか、音楽とともに霧が湧き出したように思えたのだ。
 霧は一瞬のうちにすぐ晴れてしまった。ただの錯覚であるかのようだった。
 いや、なにか白いものが視界を覆っていたのは確かだった。あるいは前を走っているトラックが、排気管から煙を吹いただけかもしれなかった。考えてみれば、この時期に東京のこんな場所で視界不良を起こすほどの霧などあるはずはないのだった。
 それを霧だと思い込んでしまったのは、やはり映画に神経を使いすぎたためだと思われた。
 彼の映画「妖霧の館2」のクライマックスでも車を運転する主人公の前方を、いつの間にか霧が覆っているのだった。
 この主人公は、迷い込んだ森の中の洋館で、古代邪神の復活を目論む魔術師と対決し倒すが、恋人と友人を失った彼は一人車に乗り館を後にすることとなる。古典的な恐怖映画ならここでエンド・マークだが、この映画はここからが真のクライマックスなのだった。
 霧に覆われた森の中の道を走る車を、突如、巨大な生物のものらしい触手が襲う。アッという間に宙高く巻き上げられ、投げ放たれてしまう。そして車が落下する先には、地面を割って顔を見せた古代邪神ツァトグアの大きな口が待ち構えているという結末なのだった。
 しばらく順調なドライヴをつづけてから、団はふたたび音楽を再生し直した。
 サウンドに耳をすませていると前方に、次第に白い霧がたちこめてきた。
 そんなはずはないと思い、目を閉じて頭を振ってから目を凝らすと霧はどこにもなかった。
 何かがおかしい、と団は思った。やはり音楽とともに霧が湧き出したようだった。今度は音楽をかけつづけた。耳に入ってくる響きは奇妙なまでに不快だった。やはり素人のつくる音楽だ、滅茶苦茶な和音をつけたのだろうと思った。
 そうして、音楽に気をとられていると、たちまち前方に霧があらわれた。
「霧なんかない。あるわけないんだ」団は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
 運転に集中していると、霧は見えなくなった。
 しかし、意識が音楽に向くと途端に霧があらわれた。
 そのたびに彼は「霧なんかない。霧なんかない」とつぶやいて前方に目を凝らした。
 やがて、何とか自宅まで帰りついた。車を止めエンジンを切るとはじめて、音楽がとっくに終わっていたことに気づいた。だが彼の耳には幻聴のようにあの不快な不協和音が鳴りつづけていたのだった。


 妻はまだ帰宅していなかった。留守番電話に伝言があった。地方でのロケが長引いて帰れるのは明日の昼ごろということだった。女優と結婚したからには、こんなことには慣れていた。一人で夜を過ごすのも、それはそれで楽しみはいくらでもあった。
 だがこの日の団は何も手に付かない状態だった。食事をする気にも、風呂に入る気にもなれず、ただソファーに腰掛けて呆然としていた。
 どうしてもあの音楽が耳から離れないのだ。そのうえ、少し気を抜くとすぐに霧の幻があらわれるのだった。幻聴と幻覚に同時に襲われるとはどういうことなのだろうかと考えた。
 結局のところおれは、あの音楽がすごく気に入ったのではなかろうかと彼は思ってみた。
 これほど人を不快にさせるからには、飯野という男はホラー音楽家としてある意味、天才なのかもしれなかった。
 そう考えると急にスッキリした気分になった。あらためてあの音楽を聞きたくなった。いっそのこと、映像と合わせて見てやろうと思い準備を始めた。
 「妖霧の館2」の映像は最終確認用のものをDVDにして保存してあった。デッキにソフトを入れラストのシークエンスを呼び出した。音楽はヘッドフォンでパソコンから聞くことにして、DVD側のヴォリュームを絞った。この状態で同時に再生した。
 大型の液晶モニターに、主人公の車が進んでいく霧の道が映し出された。ヘッドフォンからはあのメモリに録音されていた音楽が流れ出した。はじめて聞いたときは平凡な音だと思ったが、今では途轍もなく異様な響きに聞こえた。
 音と映像は完全にシンクロしていた。なぜだろう、飯野は試写会で一度見ただけの記憶でこれを作曲したはずだった。単に、音と動きがあっているというだけではない、主人公の感情の動きや、次の展開への予兆など演出家の意図したすべてが音によって表現されていた。手紙に書かれていたように、これで映画は本物になったという気がした。
 団は引き込まれるように、映像と音楽の流れに身をまかせていった。


 ふと、気が付くと彼はハンドルをにぎり、霧に覆われた森の中で車を走らせていた。
 まただ。彼はあわてて頭を振り、幻覚を追い払おうとした。
 ちがう、これは幻覚ではない。だが、おれは自宅でビデオを見ていた筈だ。
 しかし、どう考えても今、彼は車の運転席にいた。
 未舗装の山道を走る激しい振動も感じられた。
 運転に集中していないと事故を起こしそうだ。
 何か音楽について重大な問題があった気もするが、落ち着いてものを考えられる状態ではなかった。
 近くで大木が倒れるような気配があった。
 鳥たちがいっせいに奇声を上げて飛び立った。
 それが、木の倒れたためではないことを彼は知っていた。
 『ナコト写本』の呪文で目覚めたツァトグアが、地を割いて触手を振り上げたのだ。
 魔術師を殺しても邪神の覚醒を止めることはできなかったのだ。
 何しろ彼の映画だ、これから起こることもすべてわかっていた。
 車の屋根に何かが叩きつけられた。
 ヴィートルの車体が宙へ抱え揚げられた。左右の窓は濡れた鞭のような触手が巻きついてふさがれていた。
 触手の締め付けがゆるむと、車体は落下しはじめた。
 その先には、無数の牙がならんだ巨大な口腔が待ちかまえていた。
「これは映画なんだ。これは映画なんだ」団は叫びつづけた。


 団精六は、翌日の午前十一時ごろ、モニターを前にソファーに腰掛けたまま死んでいるのを、帰宅した妻により発見された。
 検死の結果、直接の死因は突然の心臓停止と思われたが、その原因は不明のままとされた。


クトゥルー神話に基づく連作短編集『根黒野ノ巫女』第壱話