2013年3月10日日曜日

アストラル・ライト


  1.

 冷えこんだ二月のある朝、黒坂真理子が目覚めとともに天啓のように感じ取ったのは「戦士が転生した」という思いだった。
 だが、彼女がそのメッセージを発信した相手を突き止めようとすると、思念は急速に遠ざかるように弱まり、間もなく消えてしまった。まるで一時の気の迷いであるかのように。
 あるいはそれはたんに彼女の願望が外部に反映されただけだったのかもしれない。じっさい彼女は今、切実に《戦士》を必要としていた。この国、日本を邪霊の脅威から守るために戦うことのできる《戦士》を。
 日本は霊的危機に見舞われている。その兆候を彼女はあらゆるところに感じ取っていた。
 今マスコミを賑わせている《首狩族事件》などもその一つだ。
 この事件は、昨年十月から関東一円で立てつづけに起こった殺人事件で、いずれも被害者は鋭利な刃物で首を切断され頭部を持ち去られていた。犯行はほぼ週に一度のペースで東京で四人、神奈川で三人、埼玉で二人、山梨で一人が同じ方法で殺害されていた。十人の被害者は男性が五人と女性が五人で、皆二十代の若者であること以外はとくに共通点はなく、通り魔的な犯行と見られていた。
 だが、真理子が独自に調査したところ、この十人はじつはいずれも潜在的に高度な霊能力を有するものばかりであったことが判明していた。たとえば、その内の一人は、飯野敬二という音楽家志望の青年で、自覚もないままにその作曲能力を通して強い霊力を発揮していた。
 今のところ、この事件は十件目の犯行以降は何事もなく、すでに三週間が過ぎようとしており、一応終息したのではないかと目されているが、警察は犯人に関する何らの手掛りも得ておらず、通称《首狩族》はいつまた活動を再開するかもわからない状態であった。
 しかし、これすらもより大きな災厄への前兆に過ぎない、というのが真理子の予測だった。
 未来の危機を予知することは、《根黒野の巫女》黒坂真理子に与えられた能力だった。古代中国から口承によって伝えられてきたものを彼女が受け継いだのだ。そしてその能力を生かし、危機と戦うべき《戦士》を見つけ出すこと、それが彼女の使命なのだ。
 かつて、ライブクラフト社が巨大コンピュータを用いて邪神クトゥルーの召喚を計画した際には、三島由紀夫の転生者、三浦与志希に率いられた自衛官ら決起によってこれを未然に防ぐことができた。その三浦も今は亡い。あれは世間が信じているような自決ではなかった。召喚を途中で邪魔されたクトゥルーの怒りに触れ呪いを受けたのだ。だからこそ自衛隊は回収した遺体をあわてたようにすぐさま火葬しなければならなかったのである。
 《戦士》といっても必ずしも戦闘能力に優れた者であるとはかぎらない。状況によっては市井の一般人が事態の解決に役立つ場合もあった。ある高校の《幻想文学研究会》が宇宙神ヨグ=ソトースの召喚を試みた際には、彼女は一介の高校生である遠野守に事情を告げ、儀式の首謀者と対決させた。
 だが今度の危機は、そのような急場しのぎの方法で乗り切れるものではないと思われた。転生を繰り返している力強い魂をもった《戦士》がどうしても必要だった。
 しかし、それが見つからないのだった。もう、この国からは強い戦士の魂は失われてしまったのだろうか。それともあるいは、自分の巫女としての能力が衰えているのかもしれない。
 いずれにせよ、残された時間はあとわずか、真理子はそう予感していた。
 だとすれば、この危機と戦うべき人間はもう自分自身しかないのではないか。《最後の戦士》として。


 午前九時すぎ、真理子の部屋へ一本の電話があった。郷田という男からで、見せたいものがあるので来てほしいということだった。
 彼女は白金のマンションから黒いセリカを出した。
 郷田というのは彼女への情報提供者の一人で、由緒ある寺の住職の息子だった。いずれは寺を継ぐことになっていたが、父親がまだ元気なので三十過ぎでも遊びまわっている道楽者だった。それでもコンピュータ関連の情報には詳しく人脈も豊富なので、首狩族事件に関してマスコミに出ないような情報があったら知らせてほしいと依頼してあったのだ。
 郷田の住居は神田のマンションの一室だった。
「相変わらず、ひどい所だな」部屋に入るなり真理子は言った。
 その部屋は、壁じゅうにアニメ絵の少女キャラのポスターが貼られ、床から天井まで箱入りのPCゲームソフトが積み上げられていた。本棚の中はマンガとフィギュアでいっぱいだった。
「いやいや、お茶でも出しましょうかね。と言っても〈午後の紅茶〉しかありませんけど、えへっへっへっ」太った体に水色のトレーナーを着た郷田は、眼鏡の奥の目を細めて甲高い声を上げた。
「いらん、とにかく情報を出せ」
「へぇへ」と郷田は机の上のパソコンを操作し始めた。「黒坂さん、まだパソコン使ってないんですよね、せめてスマホぐらい持てばいいのに」
「アメリカの文化侵略に加担する気はない」
 机の上のアニメキャラのフィギュアをつまみ上げ、郷田は言った。「これが文化侵略ねえ。最近じゃあ、日本があっちを侵略してるんじゃないっすか?」
「そんな話はいいから、情報を出せ」
「はいはい、出ましたよっと」郷田は椅子をずらしてパソコンのモニターを真理子の方へ向けた。
「なんだこれは?」
「マジック・ランタンって動画サイトでね、そこで話題になってる呪いの動画ってやつですよ」
「呪いの動画……?」
「いや、見たらすぐどうかなるって訳でもないらしいんですが、例の首狩族事件の被害者たちは皆この動画を見てたんじゃないかって噂がネット上で広まっていまして」
「どういうことだ?」
「ええ、僕が調べたところ、そうはっきりした根拠があるわけではないんですが、被害者のうちの一人の女性がウィスパーっていうミニブログでこの動画について囁いていたとか、被害者の友人だって人物が無名掲示板に被害者が殺される直前に繰り返しこの動画を見ていたという書き込みをしていたりとか、噂のもとになっているのはこの二件ようです。それもいくら探しても書き込みの現物は見つからず、あるのはコピペばかりでしたけどね。つまり一応根拠があるのは十人中二人、それもまた聞きの情報だけってわけですけど、しかし、事件以前はまったくこの動画の存在は知られていなかったにもかかわらず、今になって急に噂が出てきたってことは、やっぱり背後に何かあるのかなと」
「ふむ、とにかく動画を見てみるか」
 郷田がマウスを操作すると、動画の再生が開始された。
 それはサイレント時代のモノクロ映画のような映像だった。映し出されているのはどうやら宇宙空間らしい。凍りついた太陽のまわりを周回しつづける不毛の惑星、そんな映像だった。それに悍しくも不気味な音楽がついていた。
「こ、これは……」
「これがえんえん二十分ほどつづくだけなんすけどね」そう言いながら真理子の顔をうかがった郷田はにやけた表情を曇らせた。「どうしたんですか、黒坂さん顔が、青褪めてますよ」
 真理子の白い顔は、モニターの光を浴びていっそう青白く見えた。
「この動画、お前は何回ぐらい見ている?」
「なんやかんやで、五、六回ですかね」
「今後はもう見ないようにしろ」
「そ、そんなにやばいんですか、これ?」
「いや、よくわからないが……、事件に関係があるのは確かだ」
「やっぱり……」
「これを何人ぐらいが見ているんだ?」
「ええ、そうですね……ここだけでも七十万回以上再生されてますね。一人で何度も見る例があるとしても、ユー・チューブとか他のサイトにも拡散されてますから……軽く百万人ぐらいは見てるんじゃないですか」
「百万……、日本国内でか?」
「ええ、海外じゃ話題になってませんからね。見てるのはほとんど日本人でしょう」
 真理子は無言で画面に見入っていた。
「どうなるんでしょう……まさかいきなり死ぬとかないですよねえ」
「音楽が気になるな」
「ええ。最初に出回ったバージョンは音楽無しだったんですよ。ほんとサイレント映画みたいに。一週間ぐらい前からかな、音楽がついたのがアップされたのは」
「誰の作曲かわかるか?」
「さあ」
「被害者の中に音楽家志望の男がいたろ」
「ああ、飯野敬二とかいう……」
「多分、その男だ。曲に独特の特徴がある」
「そう言えば、飯野がネット上に公開していた曲と似てますかね」
「それで、この動画を最初に公開したのは誰だ?」
「いや、それもよくわからないんです。IDは英数字をランダムに並べただけのものだし」
「マジック・ランタン……か」
「ええ、最初に動画がアップされたのはこのサイトのようです」
「ということは運営しているのは……」
「そう、あのマジック・ランタン・ネットワーク社ですよ」


 外へ出ると、どんよりと曇った空から風に乗って粉雪が舞っていた。天気予報は午後から本格的な雪になると告げていた。
 黒坂真理子は車をお台場へ向けて走らせた。
 すでに日本からは撤退したライブクラフト社があったその跡地に、今はマジック・ランタン・ネットワーク社の巨大な黒いピラミッド型の社屋が建てられていた。
 マジック・ランタン・ネットワーク社は映像配信やオンライン・ゲームなどインターネット関連のサービスを始め、ファミリー・レストラン・チェーンや映画制作まで手がけている新進企業で、この不況下でも株価を上げつづけていた。
 経営者は日本人だか、それほどの手腕のある人物とは思われず、背後で別のものが操っているのではないかというのが、もっぱら経済界での噂だった。
 経済的なからくりに真理子の興味はない。だが、今般の霊的危機の中心にこの企業があるというかすかな予感はもとよりあった。それが今では確信に高まっていた。
 あの映像、古いモノクロ映画のような画面に映し出された呪われた宇宙……。
 あの映像には何かが仕込まれていた。精神に作用する何かが。 
 彼女自身はそのようなものから自分を守る術を身につけていた。だが普通の人々は一体どうなることか。
 彼女の予知能力はこの時、危機の中心はマジック・ランタン・ネットワーク社にありと、はっきり知覚していた。
 セリカを駐車場へ入れ、彼女は黒いピラミッドへと向かった。
 社屋といっても地下と一階から三階まではアミューズメント施設になっていて一般人が自由に出入りできた。中には大きなショッピングモールに加え、映画館や美術館それに水族館まで併設されていた。
 彼女はそれとなく気配を探りながら各店舗を見て回った。平日で、しかも予報は雪とあって客の数は少なかった。地下の映画館では『這いよれ! ニャル子さん』とかいうアニメ映画が上映されていて、その予告編が中央広場の大型モニターで繰り返し流されていた。
 そこは一階から三階まで吹き抜けになったイベント・スペースで、〈スフィンクス広場〉と呼ばれていた。中心に黄金色のスフィンクス像が設置されているためだ。見る角度によって虹のように輝きを変える不思議な金属でできていた。外形はエジプトはギザの大スフィンクスよりも、古代ギリシャ風のデザインで、ハイエナの体に乳房のある女性の上半身がついていて、両腕はハゲタカの翼だった。だが首から上は砕かれたようになっていて、頭部が存在しなかった。
「ふん、顔の無いスフィンクスか」そう呟いて真理子はその場をあとにした。


 外へ出ると、大粒の雪が降り出していた。
 真理子は駐車場からセリカを出し、しばらく周辺を走らせた。レインボー・ブリッジ近くの道路脇に空間を見つけ車を停めた。そこからだと黒いピラミッドの全体がよく見渡せた。彼女は小型の双眼鏡を取り出すと、サイド・ウィンドウを下ろし社屋へ向けた。修行を積んでいるので寒さに震えるようなことはなかった。
 商業スペースを見て回った限りでは、とくに怪しげな策動は感知されなかった。だが、四階から上の企業スペースとの間には魔術的な結界のようなものがあって、精神による探査も不可能な状態だった。マジック・ランタン・ネットワーク社で何が行なわれているかを調べるためには、やはり内部に潜入するしかないというのが彼女の考えだった。
 双眼鏡による観察をひとしきり終えると、真理子はウィンドウを上げシートを倒しそこに身体を横たえた。腹の上で指を組み精神統一をはじめた。
 やがてどこからともなく一羽の大きな鴉が近くの街灯の支柱へ舞い降りてきた。大鴉はセリカの運転席を黙って見下ろしていたが、すぐにふたたび飛びたった。降りしきる雪の中、黒い翼がピラミッドの周囲を旋回しつづけた。
 この大鴉は真理子の使い魔で、鴉の目を通して彼女は社を出入りする人物の一人一人の精神を調査することができた。
 その結果わかったのは、社員の大半は、自分が勤めているのは健全なIT企業と信じきっているということで、とくに犯罪が行われているという兆候は発見できなかった。しかし霊的な謀略ならば一部の社員のみでも実行可能だ。今はとにかく潜入に役立つ人物を探す計画だった。
 マジック・ランタン・ネットワーク社はネットサービスの関係もあって24時間一定数の社員が勤務をつづけていた。そのためシフト制になっているらしく、出勤退社の時間は社員それぞれでばらばらなようだった。それでも事務系の社員などはやはり九時から五時までという勤務のものが多かった。
 午後五時をすぎると多くの社員が退社し〈ゆりかもめ〉の駅へ向かった。その中に真理子は目的に適った人物を見つけた。26歳の秘書課のOLで、名は岡部亜沙美といった。秘書課の中ではまだ下っ端の雑用係で一日中社内を飛び回っている。その上おしゃべりでゴシップ好きだった。身長は真理子とほぼ同じ、痩せ型の真理子と比べると岡部のほうが肉付きがよく胸も大きかった。
 大鴉が岡部亜沙美のあとを尾けた。
 彼女は退社後まっすぐ家に帰ることはめったになく、同じ社の友人と深夜まで遊んでいることのほうが多かった。だがこの日は雪のためすぐ帰宅することにしたようだ。日本橋人形町の小さなマンションに彼女は住んでいた。新橋から地下鉄一本で行ける。鴉は地下鉄駅の入り口で亜沙美の思考を読み取り真理子へと伝えた。
 先回りするために真理子はセリカを飛ばした。雪はまだ積もるほどではないが、何度かタイヤを派手にスリップさせた。
 岡部亜沙美はマンションのエレベーターに乗り込んだ。ドアが閉じる寸前、真理子は身体を滑り込ませた。
 エレベーターの中で二人きり、亜沙美は横目でもう一人の女を観察した。長い黒髪の女、肌は白く服は黒のワンピース一枚。真冬にこんな恰好で寒くないのだろうかと彼女は思った。その女のほうでも彼女のことを猫のような黒い瞳でじっと見つめているのが不気味だった。
 亜沙美の部屋のある四階に着く直前、女が不意に彼女のほうへ手を伸ばしてきた。首に指先が触れた。
「なに!?」と思った途端、亜沙美の意識は遠のいていった。


 黒坂真理子は根黒野秘法の一つ《皮膚乃巣の術》により岡部亜沙美を瞬時に催眠状態に陥れた。そして酔った娘を介抱するふりをしながら亜沙美にドアの鍵を開けさせ部屋へと入った。
 亜沙美をベッドへ寝かせると、真理子は早速、亜沙美の記憶への侵入を試みた。だが、彼女の深層記憶を目の当たりにすると、思わずたじろいでしまう。この女の精神の深層は、大半が何層にも重なった強烈なセックスの記憶で占められていた。それも妻子あるかなり年上の男との不倫関係ばかり、相手を変えながら何度も結んでいるのだった。
 これではとても社内の謀略に関する情報など探り出せそうもなかった。
「まあいいわ、必要なのはあなたの身体だけ……」
 真理子は建物内部の構造に関する記憶だけを読みとると、その場で精神統一を始めた。
 根黒野秘法の奥義の一つ、《異巣の術》を使うためだ。
 この術により真理子は他人の身体と、精神を入れ替えることができるのだ。
 やがて真理子は気絶したように亜沙美の胸の上へ頭を落した。同時に亜沙美が目を開き身体を起こした。
 真理子の精神は亜沙美の眼を通して、うなだれた自分の身体を見ていた。
「どうやら上手くいったようね」
 亜沙美の手が真理子の身体を丁寧に床へ横たえた。
 岡部亜沙美は部屋を出ると、ふたたびマジック・ランタン・ネットワーク社へ足を向けた。
 夜の街には音もなく雪が降りつづけていた。


  2.

 亜沙美は社員専用のゲートから黒いピラミッド型の社屋へと入った。時刻は午後十時すぎ。そんな時間だったが社員証を示すと警備員はとくに不審がることもなく通してくれた。企業フロアになる四階まで直通のエスカレーターで上がり、中央ロビーからエレベーターに乗った。
 どこを調べるべきか、あたりはついていた。最上階三十六階にある《無有研究室》である。真理子が社員の精神を探った際、何人かの記憶の中で、この研究室が禁忌のイメージをともなっていて、まるで、近づくことはおろか考えることすらを禁じられているかのようだった。《無有》という名称さえも「むゆう」なのか、「むう」なのか、誰も正式な読み方を知らないのだった。
 エレベーターが三十六階についた。
 床と天井は黒く、壁はブルーグレー、青白い蛍光灯の明りがぼんやり照らされていた。
 ピラミッドの最上階なのでさほど広さはない。正面の黒いドアに《無有研究室》と記されたプレートが掲げられていた。廊下は左の奥にもつづいていて他にも小さなオフィスなどがあるようだった。
 とても静かだ。下っていくエレベーターのモーター音だけがかすかに響いていた。
 亜沙美は研究室のドアに手をかけた。ノブを回すとすんなりと開いた。中は暗闇だった。
 その時、左側の廊下から一人の男が姿を見せた。
「おいっ、そこで何をしている!」
 紺色の背広を着た小柄な男だった。
 生白い皮膚に筋ばった首、薄い唇とつり上がった目をしていて、妙に爬虫類じみた印象があった。
「君は誰だ?」男は言った。
「秘書課の岡部といいます」
「ここだ何をしている?」
「CEOを探してるんです。ちょっと確認したいことがありまして」
「CEO……?」
「経営最高責任者のことですけど」
「そんなことはわかっとる。社長ならもう自宅に帰られただろ」
「そう、社長ならね」
「だいたい君はどうやってここへ入ってきたんだ?」
「どうやてって、普通にエレベーターで上ってきましたけど」
 すると男は忌々しそうにエレベーターを睨みつけた。
「あなたは誰なのでしょうか?」亜沙美は質問した。
「私はここの室長、外川だ」
「室長と言うと、このナイアル研究室の?」
 外川は驚き、亜沙美へ鋭く眼を向けた。
「お、お前、なぜその名を知っている!?」
「なぜって、無有という漢字を“ないある”と読むのがそんなに驚くほどのことかしら」
「それは……」
「そう、つまり、あなたがたは社員に心理的な抑圧をかけてこの研究室に関心を向けられないようにしていた。そういうことね」
「な、な、何だと。お前……ただの社員ではないな!」
 外川がそう言って気色ばんだ時、研究室の中の明りがついた。白熱灯の淡いオレンジ色の光だった。部屋の中から低く重みのある声がした。
「外川くん。その人はいいんだ。入ってもらいなさい」
「は、はいっ」
 急にかしこまった外川がドアを開け亜沙美を通した。
 部屋の奥はピラミッドの斜面そのままの黒いガラス窓だった。そこから望める湾岸の夜景を背に、長身の黒いスーツの男が立っていた。
 肩までかかる長い髪で、皮膚はよく日に焼けたように浅黒かった。
「岡部くんと言ったね。きみはここでの研究に興味があるようだね?」
「ええ、ぜひ教えていただきたいわ」
 平然と答える亜沙美の体を、背後から外川が殺気立った目で睨んでいるのを真理子の精神はありありと感じ取っていた。
「よかろう」黒い男は言った。「私の名は無有雷蔵。ここの特別顧問をしている。来たまえ」
 無有雷蔵――そう名乗った男は彼女を右手にある別室のドアへと導いた。
 その部屋の中央に大きな機械が据えられていた。
 直径三十センチ高さ五十センチほどの黒い金属製の円柱が十本、等間隔に円を描くように配置され、それが金属のフレームと無数の電気コードでつながれていた。そしてその中央には、金色の細長い鉱物の破片のようないびつな多面体が、まるでホログラムのように光を放ちながら宙に浮かんでゆっくりと回転していた。
 その機械を目にした途端、真理子の精神はそこにわだかまるただならぬ妖気を感じ取った。
「こ、これは……!?」
「ここで開発した新型のコンピューターだ」
「これがコンピューター……」
「そう、人脳コンピューター《トラペゾヘドロン》と呼んでいる」
「人脳……人の脳……、わかったわ、あの十本の円筒の中身は《首狩族事件》の被害者十人の脳というわけね」
「さすがに察しがいいな。《根黒野の巫女》黒坂真理子よ」
 正体を見抜かれた真理子は、動じることなく言葉を返した。
「ふん、こちらもお前の正体はわかっている。《這い寄る混沌》ナイアルラトホテップ」
「フフフ、精神交換とは味な真似をしたものだ」
 低く含み笑いをもらす無有雷蔵の浅黒かった相貌は、いつの間にか宇宙の深淵そのもののような暗黒につつまれ、そこに三つの眼のように赤い炎が燃えていた。
「《燃える三眼》……、言え、何を企んでいる!」
「フフ、知りたければ教えてやろう。お前も見ただろう。あの破壊の波に呑まれた宇宙の映像を」
「あの動画か」
「あれは古い映画なのだが、この《トラペゾヘドロン》により改良をくわえたものだ。あの映像を一度でも見た者は、脳の作用にある改変が加えられることになる」
「何だそれは?」
「あの映像を見た者は、その後、無意識の内部で呪文の詠唱をつづけることになるのだ」
「呪文の……詠唱だと……」
「フフフ、何の呪文か気になるかね。きみには言うまでもなかろう」
「く……、クトゥルー……か?」
「その通り。あの動画はすでに百万以上の日本人が見ている。つまり今この時も百万人の無意識がクトゥルー召喚の呪文を唱えつづけているのだ。精神寄生体としてクトゥルーを受け入れるためにな」
「おのれ……!」
「フフフフフ、どうする《根黒野の巫女》よ。またいつぞやのようにここを自衛隊に占拠させるかね。そんなことをしても無駄だ。召喚のための媒体は百万人の脳内にすでに分散している。一人一人の持つ情報はわずかでも、その全てをあわせればクトゥルー本体と同等の像を結ぶ。仮にその内の五万や十万を殺したとしても、残った者たちは情報を相互に参照し補完しあうことですぐに修復が可能だ」
「リゾーム・システムか……」
「その上、今後もあの動画を視聴する者の数は増えつづけるだろう。精神寄生体に侵された者の数が一定数を越えれば、あとはインターネットを介さずとも精神の同調作用によって自動的にすべての日本人がクトゥルーを受け入れることになろう。日本は一木一草までわれらの支配の下に入るのだ」
「きさま……なぜ日本を狙う?」
「フフッ、日本は手始めにすぎん。いずれ、全世界、いや全宇宙が復活した旧支配者の制するところとなるのだ。だがその第一歩が日本であることには理由がある。クトゥルーの眠る場所ルルイエの存する太平洋沿岸に位置し、インターネットの普及率が高いこと。そして欧米ほどには個人主義が確立していないが、そのくせ神への信仰心は希薄であること、などいろいろあるが、第一には日本人は元来、無意識的な同調作用による支配を受け入れやすい精神構造だったためなのだ。なぜそうなっているのかは知らんがね。フハハハハハッ」
「ゆ、許さん……。他の日本人がどうあろうと、この私は最後まで戦うぞ!」
「ハハハッ、そんなことはできないよ。なぜならば、お前の精神は、今ここで私がいただくからだっ!」
 その言葉と同時に、暗黒が彼女の身体を包み込んだ。瞬時に真理子は精神だけを離脱させた。その一瞬、真理子は《這い寄る混沌》の名状しがたき真の姿を目にした。見つづけていれば気が触れてしまっただろう。それでも何とか自分の身体が横たわる岡部亜沙美の部屋へ無事に帰りつくことができた。それというのも、ピラミッドの結界が外から内へ侵入するものを防御する目的で張られていたため、内側からの突破は比較的容易だったことに加えて、ナイアルラトホテップのような神格でも、真理子の用いる魔術が系統の異なる初めて対峙するものであったため、わずかながらの隙を突いて逃走することができたのだった。。
 真理子は亜沙美の精神をもとの身体へ返し、自分の精神を自分の身体へと戻した。突然、マジック・ランタン・ネットワーク社の最上階で目覚めることになる亜沙美は驚くことにはなろうが、《暗黒の男》も無力なOLには手出しをせず無事に帰すだろうと真理子は予測していた。彼らにしてみれば彼女もまた、いずれクトゥルーを受け入れる媒体の一つとなるはずなのだから。
 精神寄生体としてのクトゥルーによる侵略。それは何としても阻止しなければならない。だが、どうすればいいのか?
 その答を見つけられず、黒坂真理子は唇を噛んだ。


 翌朝、真理子が目覚めた時、前日の朝と同様の「戦士が転生した」というメッセージを受け取った。彼女はすぐさま発信者の正体を探ったが、それは間もなく遠ざかり消えてしまった。昨日は気のせいと思っていたものだが、今回はその存在をはっきりと触知することができた。その気配がすぐに消えてしまうのは、どうやら高速で移動しているためらしい。いったい何者なのだろうか?
 だが、その詮索はあとまわしだ。
 昨夜は、何とか自室に帰りついたものの、とても眠れる精神状態ではなかった。
それでも、部屋の結界を強化し、ヨガの呼吸法で気を鎮めることで眠りにつくことができたのだった。
 その朝、雪はもう止んでいた。空には明暗がまだら状になった灰色の雲が重く垂れこめていた。
 彼女は、まず冷水と熱湯のシャワーを交互に浴びて身を清めた。
 そして部屋の中央に寝転ぶと精神統一を開始した。結跏趺坐などの形にはこだわらないのが彼女のやりかただった。
 真理子はおよそ十時間にもおよぶ深い瞑想に入った。自分の取りえる選択を検討し、そのそれぞれの未来を予知するためである。
 瞑想から復帰したときにはもうすっかり日が暮れていた。予知された未来はどれも暗澹たるものだった。経済的には繁栄しているかに見えても、精神面ではクトゥルーの奴隷状態、どの道を選んでも行き着く先はそうなるのだった。
 彼女は簡素だが効果的な食事を済ますと、ふたたび精神統一に入った。今度は予知ではなくある呼びかけが目的だった。
 昨日と今日の朝方、彼女へ向けて「戦士が転生した」という思念を届けた何者かが存在する。その相手を探し出す必要があった。未知の存在と接触すること、それだけが未来を変えうる唯一の可能性だった。
「戦士よ……私を呼ぶ者よ……応えよ」
 彼女は空へと呼びかけていた。宇宙まで到達させるつもりだった。
 あの未知の声は宇宙から届いたものというのが彼女の考えだった。朝方のほんの一時のみ思念を伝え、急速に遠ざかってしまうということは、それは衛星軌道を周回しているのではないかと推測したのである。
「戦士よ……」何度目かにそう呼びかけたとき、ついに反応があった。


――やあ。やっと、話ができるね。
 と、はっきりとした思念が真理子の精神へと語りかけてきた。
「誰だ、お前は誰だ?」
――ぼくはネクロノミコンさ。
「何だと……、それは本の名ではないか」
――そっ、まあ本の精霊といったところかな。あるいは擬人化した魔道書。もっとも人の姿をしてるわけじゃないから人格化というべきかな。とにかく進化した魔道書ってことですよ。
「人間ではないのか?」
――うん、そう、魔術的で能動的な情報のホログラム化と思ってもらってもいい。
「さっぱりわからん」
――じゃっ、とりあえず外見のイメージを送ろうかな。
 すぐに真理子の脳内に一つの印象が伝わった。それは宇宙空間を漂う金属片と小型の隕石の集合体のようなものだった。
「何だこれは。ゴミにしか見えんぞ」
――ゴミとは心外な。これでも一応、人工衛星なんですから。
「人工衛星だと……、魔道書が進化して人工衛星になったというわけか」
――そそっ、ご理解いただけたようで。
「しかし、どうしてそんなことができたのだ?」
――ええ、ではそもそもの由来からお話します。ぼくは元はと言えばミスカトニック大学の図書館に所蔵されていた一冊の『ネクロノミコン』だったのです。それが、いつのころからか、自分の中に意識のようなものが生まれたのです。と言っても最初の頃はぼんやりしたもので、はっきりとした思考があったわけではないのですが。
「うむ、霊は万物に宿っている。書物の霊なら、時に高次の存在になりえる」
――ええ。それで少しづつ周囲の書物の中身を読みとったりしながら、ぼくもだんだんと成長していきました。周囲の書物っていうのは『エイボンの書』や『無名祭祀書』なんかですね。さらに大いなる一歩を踏み出すきっかけになった決定的な出来事は、わがミスカトニック大にコンピューターが導入されたことですね。まあ、その頃のぼくにも猫ぐらいの好奇心はありましたから、それへ侵入してみたわけなんです。
「ちょっと待て、それはいつの話だ」
――ええ、グレゴリオ暦でいいますと1960年代の終りごろでしたね。コンピューターといってもその頃のものですから、真空管と磁気テープの化け物ですよ。
「それじゃあ、容量が足らんだろ」
――ああいや、これはそういう電子工学的な話じゃないんですよ、ネクロノノミコさん。ぼくに必要だったのはコンピューターというものの構造と可能性だけでね、それさえわかれば、あとは道端の石ころの中にでも、もっと性能のいいものを霊的に再構成する能力がぼくにはあった。そしてそう、もちろんじっさいに試したんだ。大学構内の石ころを媒体にして、コンピューターの構造と『ネクロノミコン』やその他の魔道書のデータを再現したんですから、これぞまさしく錬金術師の夢、《賢者の石》ってとこです。
「ふむ、それで」
――それでですね、その頃は電子工学よりも、人間たちが関心を持っていたのは宇宙旅行でしょう。スプートニクとかアポロとか。だからぼくもただ道端に転がっていても仕方がない宇宙へ出ようと、そう決意したわけなんです。べつにむずかしいことでもありません。再度、霊的な投射を行なえばよかったんですから。そこでぼくは多段式ロケットの破片、いわゆるスペース・デブリね、それを見つけて乗り移ったわけです。そこでまた見聞を広めて、とくにアルベマスから語りかけてきた霊的存在からはいろいろ教わりましたね。
「アルベマスって何だ?」
――みなみのうお座の星です。で、その後も《星の精》たちから異星の様子を聞かせてもらったり、ひとりで思索を深めたりしながら地球の周りをぐるぐるまわっていたわけです。もちろん地上の出来事も観察していました。そんなこんなで長い時が経った頃、ぼくの片割れがどうやら困っているのを見つけた。それで、きみに話しかけた、とそんな次第です。
「片割れとはどういうことだ?」
――やだなあ、これは感動的な再会なんですよ。キリスト紀元八世紀、アラブの砂漠でアブドゥル・アルハザードの手によって記された『キタブ・アル=アジフ』、これがぼくたちの原型だ。ぼくはアラブからヨーロッパ各地を巡り、翻訳をくりかえされながら『ネクロノミコン』となってアメリカに渡った。その一方アラブからインド、中国とを経由するうちに書物の形を失い、口伝えの《根黒野秘法》として日本へ渡り、それを受け継いだのがきみだ。今、千三百年の時を越えて西回りと東回り、それぞれ地球を半周したふたつの《アル=アジフ》が今ここで出会ったんじゃないか。
「ふむ、で、お前が《戦士》なのか?」
――そう、戦士。きみの思考を読み取ってぼくは気づいたんだ。そもそも、ただの書物だったぼくが霊的存在として自我を持つことになったのは、戦士の魂がぼくの内部に転生したからだって。これは地球を覆う巨大な霊的システムが君を、というか人類を、助けるべく仕組んだことなんだよ。まあそれを運命といってもいいけど。それで名も知れぬ古代の戦士がぼくの中に転生した。きっとキンメリアのコナンみたいな奴だろうね。だから、戦うための情報ならぼくは持ってる。でもね地上で動くための身体が……。
「どうすればいい?」
――ええ、その、つまり、きみと融合したい。
「融合だと!?」
――そう、そうすればきみの仕事もずいぶんと捗るだろうし、ぼくもねえ、衛星軌道を周回しつづけるのにもいいかげん飽きてきてね。一日の長い仕事を終えて猫にえさをやる、そんな生活をしたいなんて思っていたところなんだ。ま、薔薇十字団ふうに言えば《化学の結婚》ってやつでしょうか。
「結婚か、それもいいだろう」
 真理子は答えた。彼女に迷いはなかった。彼女もまたこれは運命の導きなのだと直感していた。
――じゃっ、そういうことで。
 すると、その直後、真理子の内部に大量の情報が流れ込んできた。
 知識が猛烈な勢いで倍増した。そればかりかそれは世界の様相そのものを変えた。それまで二次元として認識していたものが、三次元として立ち現われてくる。そんな変化だった。
 彼女の精神は刹那のうちに、未知なるカダスへ、神秘のレン高原へ、輝けるハリ湖へ、禁断のカルコサへと旅していた。
 やがて彼女の肉体は分解された。そして霊的に再構築された。
 真理子は、《霊的進化》の階梯を上昇し、魔術的サイボーグとして生まれ変わったのだった。


――調子はどう?
 そう聞かれ、宇宙的驚異の流入に我を忘れていた黒坂真理子は答えた。
「ああ、大丈夫だ。いや、とてもいい」
 そこは相変わらずのマンションの一室。真理子の身体は普通の人間の外形に戻っていた。
 人工衛星は軌道上にあったが、それは今や彼女の第三の目のような新しい器官として存在していた。人格はそれぞれもとのままで、対話もできた。
――じゃあ、ニャルラトテップの野郎をとっちめに行こうか。
「ああ」
 彼女は床の間にあった剣を手に取った。それは真理子が先祖より受け継いだ刀で、湾曲のない直刀、つまり上古の時代に作られたものだった。魔を断つ剣《カラスキ》と呼ばれていた。
 鞘をベルトに取り付けると、彼女の身体は身に付けたものとともに分解された。一瞬後、彼女は宇宙空間を飛翔していた。
 球状の地平の向うに月と太陽がならんで見えた。
 日本は夜の闇につつまれながら、そこには人工の灯が無数の宝石をちりばめたように輝いていた。その一つ一つに人間の生の営みがあるのだ。
 人工衛星が軌道を変えた。
 上空から彼女はマジック・ランタン・ネットワーク社の黒いピラミッドを透視した。最上階の《無有研究室》の内部が見える。
 無有雷蔵が外川を呼んでいた。
「外川。計画の進行状況はどうだ?」
「はっ、すべて順調です」
「ん?」無有が不意に顔を上げた。「何だこの気配は!?」
「は?」
「何かが近づいてくる……。これは……ツアールとロイガーを滅ぼした《光の使者》か、いや、違う。まさかハスターが……いや、……あの女……何をした!」
 真理子はピラミッドの直上に静止すると、稲妻形の電光となって落下し、研究室の中で一気に実体化した。
「お、お前は……」無有雷蔵が声を上げた。
「シャーッ」と、外川が気味の悪い歯擦音を発して跳びかかってきた。
「キエイッ!」真理子の気合とともに魔剣《カラスキ》が一閃した。
 外川の顔は、霧の仮面が晴れるように朧にかすみ、蛇人間の本性があらわになった。蛇人間は頭を胴から分断され、赤黒い血をまき散らしながら絶命した。
「お、おのれ、魔女め……剣で私が倒せると思うのか!」無有雷蔵の相貌が闇に包まれていく。
「さあ、どうかな」
 真理子は《カラスキ》を大上段に構えながらじわじわと間合いを詰めた。
 そして彼女の口からは呪文が流れでた。
ふんぐるい むぐるうなふ くとぅぐぁ ほまるはうと うがあ=ぐああ なふる たぐん! いあ! くとぅぐぁ!
「や、やめろ、その呪文は……!」《暗黒の男》はうろたえ後退った。
 真理子は呪文をくりかえした。
ふんぐるい むぐるうなふ くとぅぐぁ ほまるはうと うがあ=ぐああ なふる たぐん! いあ! くとぅぐぁ!
男は、ふと何かに気づき顔に嘲笑を浮かべた。
「フハハッ、無駄だ、無駄だ、星の配置が違うのだからな!」
ふんぐるい むぐるうなふ くとぅぐぁ ほまるはうと うがあ=ぐああ なふる たぐん! いあ! くとぅぐぁ!
三度目の詠唱のあと、彼女は言った。
「星の配置などというのは地上の論理にすぎん。今頃わが分身、衛星《ネクロノミコン》は、みなみのひとつ星アルベマスと交信しているのだからな」
「それが……」
「知らなければ教えてやろう。アルベマスとはフォマルハウトの別名だ」
「な、何!」
「ふっ、呪文は唱え終わったぞ。きさまの命運も尽きたな。ナイアルラトホテップ!」
「ええ・や・や・や!」
 《這い寄る混沌》は奇声を発しながら人間の姿を失うと、触腕状の付属器官を真理子の方へ伸ばしてきた。
 だがそれが真理子の身体に触れることはなかった。
 琥珀色の光が室内に満ちるとともに《闇に吼えるもの》の体が燃え上がった。
 クトゥグァの炎の精が襲来したのだ。
「いぐないい! いぐないい!」
 叫びながらのたうちまわるナイアルラトホテップの体は、たちまち灰と化すまでに燃え尽きた。
 真理子は同じ炎によって人脳コンピュータ《トラペゾヘドロン》も焼き尽くした。
 内部に人間の脳が組み込まれているとは言え、すでに機械と一体化し人格も失われている以上、他に方法はなかった。真理子は首狩族事件の被害者たちのために冥福を祈った。


 黒坂真理子は宇宙空間で衛星《ネクロノミコン》と合流した。
「ナイアルラトホテップはあれで死んだのか?」
――いや、霊体になって逃げて行ったよ。今ごろユゴス星あたりじゃないかな。人脳コンピューターのテクノロジーはあそこのものだったからね。
「そうか。それはいいが、精神寄生体のほうはどうする?」
――あれは要するにウイルスみたいなものだからねえ。ぼくがワクチンを組み立てて流せば何とかなるんじゃないかな。
 さっそく翌日には、精神に作用するワクチンが製造された。
 《ネクロノミコン》は、まず呪われた宇宙の動画を無害なものに書き換え、そしてマジック・ランタン・ネットワーク社が所有するレーベルからデビューしていたアイドル・グループの楽曲にワクチンを組み込んだ。この曲のプロモーション・ビデオは動画サイト〈マジック・ランタン〉にアクセスすると自動的に再生され、その上テレビCMや有線放送などでも頻繁にかかっていた。それを数秒耳にするだけでワクチンは効果を上げた。精神寄生体は、冒されたものの数が一定数より減少すれば、無意識の同調作用が失われあとは自然と消えていった。


「どうやらうまくいったな」マンションのベランダから、よく晴れた空を見上げて真理子は言った。
――そりゃそうさ。ぼくらはいいコンビだ。
 と、《ネクロノミコン》が語りかけた。
 陽射しが、屋根の上に残った雪に反射して、空気が輝いているようだった。
 彼女の予知能力に、危機の気配は感じられなかった。
「しばらくはゆっくり休めそうだな」
――それはそうと、きみ猫を飼ってくれないかな?
「うちはマンションだからだめだ」
――そこを何とか、こう……。
「だめ」
 そう真理子が言った時、部屋の中から一匹の黒猫が尻尾をふりながらあらわれ、彼女の足を舐めたのだった。


  クトゥルー神話に基づく連作短編集『根黒野ノ巫女』第六話