映画が終わると拍手がおこった。
はじめはパラパラと、そしてすぐに暗い客席全体にひろがった。
だが、額面どおりには受け取れない、と団精六は思った。上映前に舞台挨拶をした監督らがまだ劇場に残っていると承知して聞かせているのだから。プロデューサーが握手を求めてきた。団もその手を握り返し、つづけて劇場の支配人とも握手をした。
その映画「妖霧の館2」は今日が初日。立ち見も出るほどの盛況で、上映中の客の反応もまずまずだった。
映写機の横の特別席で彼らは、映画そのものよりも客席の反応に注意を払っていた。すでに一般向けの試写会である程度の感触は得ていたが、自分の演出に観客たちが笑ったり息をのんだりする様を眺めるのはやはりいいものだった。
この作品は前作「妖霧の館」のパート2ということで宣伝されていたが、続編というよりはほとんどリメイクと言うべき内容だった。一作目は予算をぎりぎりまで切り詰めやっと通した企画で、手作りの特撮と素人同然の無名俳優を使い何とか完成させたものだった。
劇場でのレイトショー公開はまったく客が入らず、あっという間に打ち切りになってしまった。団も一時はこれで監督廃業かと失意に沈んでいたのだが、ビデオソフトが発売されると、これがレンタル店では意外な人気を呼び、おかげでパート2の製作に漕ぎ着けたのだった。
この「妖霧の館2」は一作目とほぼ同じストーリーだが、低予算のために断念していた描写を復活させ、役者もうまい人を揃えることができた。中でも妖術師役を、かつての特撮ヒーローものの悪役で知られる往年の名バイプレイヤーに演じてもらえたのは望外の喜びだった。
また一作目の主演俳優には「2」では主人公の友人役で出演してもらい、特撮も極力CGにはたよらずチープな手作り感を残すことで前作からのファンへのアピールも欠かさなかった。
成功を祝して一杯どうかというプロデューサーからの誘いを、団は車できているからと断った。
帰る準備をしていると、劇場の係員がやってきた。
「監督、ファンの人がこれを」と封筒を手渡した。
開けてみると中には手紙とCD-Rが入っていた。
手紙の内容は以下のとおり。
拝啓、団精六様。
前作「妖霧の館」を見て以来、団監督の大ファンです。それ以前のビデオ作品などもすべて見させていただきました。どの作品も、他の誰にもマネのできない独特のテイストにあふれていて素晴らしかったです。
「妖霧の館2」は、すでに試写会で拝見して、これで二度目です。監督自らが 手掛けられた脚本はもちろんのこと、各俳優の演技や、特撮などもこれまでで最高の出来栄えだと思いました。とくに、主人公が車ごと怪物に呑みこまれるラスト・シーンは、全く本物としか思えない迫力でした。
ただ、ひとつだけ苦言を呈させてもらうならば、音楽には不満を感じます。
すべてが本物の輝きを放つこの映画の中で音楽だけは偽物に思えました。
私自身が音楽家志望であるために、この点だけは評価が厳しくなってしまったのかもしれません。
ところで同封のCDですが、今回の映画のラスト・シーンへいたる霧の中のドライブをイメージしながら作曲した音楽です。映像のバックにこの曲を使ってもらえれば、あの映画はすべてが本当に、本物になることでしょう。
将来、プロの音楽家になって団監督の映画で音楽を担当するのが私の夢です。その日の来るのを楽しみに待っています。
飯野敬二
手紙を読み終え団は、よくあるファン・レターだと思ったが、音楽がけなされていることが気にかかった。今度の作品では日本の映画界でも一流の作曲家を起用し、いい仕事をしてもらった。他の要素と比べて音楽だけが劣るということは決してないはずだった。
もっとも、この手紙の主は単に自分の音楽を売り込みたいがために、このような書き方をしただけかもしれなかった。そうだとすれば、録音された音楽のほうも、あまり期待できないなと彼は思った。
劇場からの帰り道、団は愛車である旧型のフォルクスワーゲン・ヴィートルを運転して高速に乗った。
そのうちに、自分の映画のために書かれたという曲を聞いてみたくなった。意外な掘り出し物という可能性もないとは限らなかった。
封筒からCDを取り出すとプレイヤーに挿入した。
まもなく、音楽が流れ出した。打ち込みでつくった音のようだった。平凡だなというのが最初の印象だった。
プレイヤーの作動を確認し、前方へ視線をもどすと、路上一面に白い霧がかかっていた。
団はあわてて演奏を止めた。なぜだか、音楽とともに霧が湧き出したように思えたのだ。
霧は一瞬のうちにすぐ晴れてしまった。ただの錯覚であるかのようだった。
いや、なにか白いものが視界を覆っていたのは確かだった。あるいは前を走っているトラックが、排気管から煙を吹いただけかもしれなかった。考えてみれば、この時期に東京のこんな場所で視界不良を起こすほどの霧などあるはずはないのだった。
それを霧だと思い込んでしまったのは、やはり映画に神経を使いすぎたためだと思われた。
彼の映画「妖霧の館2」のクライマックスでも車を運転する主人公の前方を、いつの間にか霧が覆っているのだった。
この主人公は、迷い込んだ森の中の洋館で、古代邪神の復活を目論む魔術師と対決し倒すが、恋人と友人を失った彼は一人車に乗り館を後にすることとなる。古典的な恐怖映画ならここでエンド・マークだが、この映画はここからが真のクライマックスなのだった。
霧に覆われた森の中の道を走る車を、突如、巨大な生物のものらしい触手が襲う。アッという間に宙高く巻き上げられ、投げ放たれてしまう。そして車が落下する先には、地面を割って顔を見せた古代邪神ツァトグアの大きな口が待ち構えているという結末なのだった。
しばらく順調なドライヴをつづけてから、団はふたたび音楽を再生し直した。
サウンドに耳をすませていると前方に、次第に白い霧がたちこめてきた。
そんなはずはないと思い、目を閉じて頭を振ってから目を凝らすと霧はどこにもなかった。
何かがおかしい、と団は思った。やはり音楽とともに霧が湧き出したようだった。今度は音楽をかけつづけた。耳に入ってくる響きは奇妙なまでに不快だった。やはり素人のつくる音楽だ、滅茶苦茶な和音をつけたのだろうと思った。
そうして、音楽に気をとられていると、たちまち前方に霧があらわれた。
「霧なんかない。あるわけないんだ」団は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
運転に集中していると、霧は見えなくなった。
しかし、意識が音楽に向くと途端に霧があらわれた。
そのたびに彼は「霧なんかない。霧なんかない」とつぶやいて前方に目を凝らした。
やがて、何とか自宅まで帰りついた。車を止めエンジンを切るとはじめて、音楽がとっくに終わっていたことに気づいた。だが彼の耳には幻聴のようにあの不快な不協和音が鳴りつづけていたのだった。
妻はまだ帰宅していなかった。留守番電話に伝言があった。地方でのロケが長引いて帰れるのは明日の昼ごろということだった。女優と結婚したからには、こんなことには慣れていた。一人で夜を過ごすのも、それはそれで楽しみはいくらでもあった。
だがこの日の団は何も手に付かない状態だった。食事をする気にも、風呂に入る気にもなれず、ただソファーに腰掛けて呆然としていた。
どうしてもあの音楽が耳から離れないのだ。そのうえ、少し気を抜くとすぐに霧の幻があらわれるのだった。幻聴と幻覚に同時に襲われるとはどういうことなのだろうかと考えた。
結局のところおれは、あの音楽がすごく気に入ったのではなかろうかと彼は思ってみた。
これほど人を不快にさせるからには、飯野という男はホラー音楽家としてある意味、天才なのかもしれなかった。
そう考えると急にスッキリした気分になった。あらためてあの音楽を聞きたくなった。いっそのこと、映像と合わせて見てやろうと思い準備を始めた。
「妖霧の館2」の映像は最終確認用のものをDVDにして保存してあった。デッキにソフトを入れラストのシークエンスを呼び出した。音楽はヘッドフォンでパソコンから聞くことにして、DVD側のヴォリュームを絞った。この状態で同時に再生した。
大型の液晶モニターに、主人公の車が進んでいく霧の道が映し出された。ヘッドフォンからはあのメモリに録音されていた音楽が流れ出した。はじめて聞いたときは平凡な音だと思ったが、今では途轍もなく異様な響きに聞こえた。
音と映像は完全にシンクロしていた。なぜだろう、飯野は試写会で一度見ただけの記憶でこれを作曲したはずだった。単に、音と動きがあっているというだけではない、主人公の感情の動きや、次の展開への予兆など演出家の意図したすべてが音によって表現されていた。手紙に書かれていたように、これで映画は本物になったという気がした。
団は引き込まれるように、映像と音楽の流れに身をまかせていった。
ふと、気が付くと彼はハンドルをにぎり、霧に覆われた森の中で車を走らせていた。
まただ。彼はあわてて頭を振り、幻覚を追い払おうとした。
ちがう、これは幻覚ではない。だが、おれは自宅でビデオを見ていた筈だ。
しかし、どう考えても今、彼は車の運転席にいた。
未舗装の山道を走る激しい振動も感じられた。
運転に集中していないと事故を起こしそうだ。
何か音楽について重大な問題があった気もするが、落ち着いてものを考えられる状態ではなかった。
近くで大木が倒れるような気配があった。
鳥たちがいっせいに奇声を上げて飛び立った。
それが、木の倒れたためではないことを彼は知っていた。
『ナコト写本』の呪文で目覚めたツァトグアが、地を割いて触手を振り上げたのだ。
魔術師を殺しても邪神の覚醒を止めることはできなかったのだ。
何しろ彼の映画だ、これから起こることもすべてわかっていた。
車の屋根に何かが叩きつけられた。
ヴィートルの車体が宙へ抱え揚げられた。左右の窓は濡れた鞭のような触手が巻きついてふさがれていた。
触手の締め付けがゆるむと、車体は落下しはじめた。
その先には、無数の牙がならんだ巨大な口腔が待ちかまえていた。
「これは映画なんだ。これは映画なんだ」団は叫びつづけた。
団精六は、翌日の午前十一時ごろ、モニターを前にソファーに腰掛けたまま死んでいるのを、帰宅した妻により発見された。
検死の結果、直接の死因は突然の心臓停止と思われたが、その原因は不明のままとされた。
クトゥルー神話に基づく連作短編集『根黒野ノ巫女』第壱話
0 件のコメント:
コメントを投稿