1.
その日、私が浮気調査のための尾行を終え、事務所兼住居である雑居ビルへ帰り着いたのは深夜零時を過ぎた頃だった。
ガレージの前に車を止めた。スカイラインが前の事件でオシャカになったので、今は中古で買ったシルビアに乗っている。
シャッターを開けるため車から降りようとしたところ、暗がりから人影があらわれてこちらへ駆けよってきた。フード付きのモスグリーンのジャケットを着て肩から大きなショルダーバッグを下げた男だった。
「助けてくれ。一条寺」男は私の名を呼んだ。
「おぅ、白石じゃないか」
その男は私の知り合いだった。名は白石尚之。本人はジャーナリストと言っているが、じっさいのところはヌードグラビアが売り物の三流ゴシップ誌に埋め草の記事を書くのが主な仕事だった。私は情報収集などで何度か仕事を手伝ったのだが、まだ代金は受け取っていなかった。
「助けてくれ」白石はもう一度言った。
「料金前払いなら、助けてもいいぞ」
「ふざけている場合じゃないんだ」
白石はかなり焦っていた。私は助手席側のドアを開けた。
「どうしたんだ、いったい?」
「説明は後だ。車を出してくれ」
「どこへ?」
「どこでもいい。とにかくここを離れるんだ」
白石の指示するとおりに、私はシルビアを走らせた。
しばらく夜の街中を右へ左へとさまよった。白石は尾行を気にしているらしく、何度も後をふり返っていた。
「よし、どうやら尾けられてはいないようだ。じゃあ高速に乗ってくれ」
白石はちょうど前方に見えていたランプウェイを指差した。
「おい、どこまで行く気なんだ?」
「たのむ、この仕事が上手くいけば大金が入るはずなんだ」
「ちぇっ、おまえの儲け話に乗ってろくな目にあったためしがない」
そう言いながらも私はシルビアを首都高へのせた。
白石はトラブルメーカーでもあったが情報屋としての腕は確かで、貸しを作っておいても損をする相手ではなかった。
「月沢村って知ってるか?」深夜の高速を飛ばしていると白石が言った。
「いや。そこへ行くのか?」
「そうだ。その村なんだが、人口は数十人という山奥の小さな村だったんだがな、一年ほど前、ある夜突然、村人すべてが消えてしまったと言われている」
「なんだ、都市伝説じゃないのか」
「ああ、実際はたんに過疎化がすすんで廃村になったのが真相とされている。だが大量殺人で村人すべてが殺され、犯人も自殺したという説もあるんだ」
「まさか、それほどの事件が本当にあったなら、もっと大きなニュースになってるだろ」
「しかし、いいか、もし本当に村人のすべてが一度に殺されてしまったとすれば、誰がそれをニュースにするんだ。犯人も自殺したなら事件そのものが発覚しないままうやむやになってしまうことだってありえると思わないか?」
「いくら山奥の村だって郵便配達ぐらいは行くんだろ」
「手紙がなければ配達なんか行かないさ」
「手紙が全く来ない村なんてあるか?」
「ああ、普通ならそんなことはないだろうな」
「普通ならって、とういうことだ?」
「つまり月沢の住民は普通じゃなかったってことさ。じつは大量殺人があったなんておれも信じちゃいない。過疎で廃村になったというのが本当だろう。だが、その後、その廃村に勝手に住み着いた人々がいたんじゃないかというのがおれの考えなんだ。郵便も受け取らず、電気も水道も使わずにな。そんな奴らなら、ある日突然消えちまったとしても、誰にも気づかれないだろう?」
「よくわからないな。一体どんな人間がそんなところに住んでたっていうんだ?」
「さあな。それをこれから調べるんだよ。とにかくあの村には何かがあるんだ。月沢のことを地元の人間はこう呼んでる。“神に見捨てられた土地”ってな」
東京を離れ、しばらく行ったところで高速を降りた。
白石の指示でさらに走りつづけると、街灯もない山道へ入っていった。
深夜三時ごろ、もう乗用車では先へ進むのが困難な山奥へと着いた。
「もう進めないぞ」私は言った。
「よし、ここから先は歩きだ」地図を確認しながら白石は言った。
「まだ遠いのか?」
「いや、このすぐ先だ。一時間もかからんだろう」
「夜明けまで待ったらどうだ?」
「だめだ、奴らに先を越されるかもしれん」
「奴らって?」
「よくわからんが。この調査を邪魔しようとしてる奴らがいるんだ」
「おれはここで待ってるよ。眠くなってきたんでな」
「そうか。必要な調査が済んだらすぐ戻ってくる。それほど時間はかからんはずだ」
「ああ、がんばってくれ」
白石は車を降り、懐中電灯で辺りを照らしながら、木々の間へ分け入るように進んでいった。やがてその明かりも闇の中へと消えた。
私はシートの上で眠りについた。
携帯電話の着信音で目を覚ました。
周囲は暗く夜明けまではまだ間があるようだ。
私は電話に出た。
「おい一条寺っ、た、た、たいへんだ」白石はひどく動揺していた。
「どうしたんだ、落ち着けよ」
「たいへんなものを見つけた……、とっ、とにかくこっちへ来てくれ」
「見つけたって、何を?」
「いいから、早く……まて……、あれは何だ……」
「おいっ、どうしたっ」
「こ、こっちへ来る……、うっうわぁぁっ」そして電話からは激しいノイズが聞こえた。
「どうした白石っ、おい白石っ」
電話は切れていた。
私はトランクから懐中電灯を出した。
とにかく白石のところへ行ってみることにした。
村までの道は茂みが踏み分けられたところを辿ることができた。
しかし一体、何があったというのか。
白石はヤバい相手に脅されながら取材をこなしたことも一度ならずあり、多少のことで恐慌をきたすような男ではないはずだが。
夜明けが近づいて空がかすかに明るくなってきた。
前方に大きな鳥居があった。古い神社のお堂があり、その先にもいくつか廃屋らしきものが見えた。
どうやら月沢村へ着いたようだ。
かすかに霧が流れていた。人の気配はまるでなかった。
辺りを見回していると、神社の裏手の方でオレンジ色の明かりが揺れるのが見えた。
そちらへ近づくと、人が倒れているのが目に入った。
服と鞄に火がついて燃えていた。
「白石っ」
人体発火現象か。私は駆け寄った。
火を消すためにジャケットを脱ごうとして、すでにその人物が死んでいることに気づいた。
首から上の頭部が切断され無くなっているのだった。
辺りに血が飛び散っていたが、切り離された頭部はどこにも見当たらなかった。
その時不意に、頭上になにか気配を感じた。
見上げると、大木の上から梢を揺らして何かが飛び立ったところだった。
それは黒い翼をはばたかせ、明るみはじめたダークブルーの空をぐんぐん上昇していった。
「あれは……、なんだ?」
翼の形は蝙蝠に似ていたが、それにしては大きすぎる気がした。鷲かなにか猛禽の一種だろうか。 私は茫然と立ち尽くし、その妖鳥の影が空に消えるのをただ見守っていた。
謎の黒い鳥が飛び去った後、足元を見ると何か光るものが落ちているのに気づいた。拾い上げて見るとそれは、小さな石英を思わせる先の尖った六角柱状の透明な結晶のようなもので、内部には電子部品らしきものが封じ込められていた。
どんな用途の部品なのか想像もつかないまま、私はそれをポケットに収めていた。
私はひどく動転していた。死体の様子もろくに調べずにシルビアへ戻ってきた。
もっともジャケットも、ショルダーバッグも原型をとどめないほど激しく燃えていたので、メモなどがあったとしても灰になってしまっただろう。
私は警察へ電話をかけ簡単に事情を説明した。
しばらくするとパトカーがやってきた。
二人組の警官を死体のもとへと案内すると、さらに捜査官の一団が呼び寄せられた。
現場検証が始まり、私は西岡と名乗った刑事に事情聴取のためにと同行を求められた。
警察署は周囲を田んぼに囲まれたのどかな場所に消防署と隣り合って立てられていた。
私は昨夜からの出来事を一通り何も隠さず説明した。ただ、現場で拾った結晶状の部品のことだけは黙っていた。ポケットに入れたことを、その時は忘れていたのだ。
西岡は笑顔が顔に貼り付いているような人のいい中年男だったが、私の証言をメモして部屋を出て行くと、しばらくして今度は厳しい顔つきをした二人の刑事がやってきた。
この二人はあきらかに私を殺人犯と決めてかかっているような態度で証言を何度も繰り返させた。
夕方近くになってやっと私は取り調べから解放された。
西岡が車でシルビアを駐めた場所まで送ってくれた。その間に捜査の進展について多少話が聞けた。白石の頭部は未だに見つからないことや、一度は私が第一の容疑者と考えられていたことなど。事件当時、周囲数キロに白石と私以外に人間がいた形跡が全くなかったので仕方がなかったと西岡は言った。
ではなぜ私の容疑は晴れたのかと尋ねたが、その理由は「上からの指示」という以外、西岡自身知らされていなかった。
警察の車はシルビアを駐めた山道の行き止まりのところへ着いた。
「まあ、とにかく世の中には知らない方がいいこともあるってことですわ。あんたも探偵だからっていっても、こんな事件にはもうかかわらんことです」車から降りる私へ西岡はそう言った。
別れ際に私は尋ねた。
「西岡さん。このあたりで何か大きな鳥はいますか?」
「鳥……ですか?」
「ええ、あの死体があったところで見かけたんです。大きな蝙蝠か、それとも鷲かなにか」
「鷲は見ないなあ。蝙蝠ぐらいはいるが、それも小さなものですよ」
「なにか、とにかく大きな鳥だったんですが……」
「少し前まではトンビをよく見たけど、最近はねえ、カラスばかりが多くなって」
「そうですか」
「まっ、くれぐれもこれ以上こんな事件には首を突っ込まないように」
私はシルビアに乗り込んでその場を離れた。
それから一月ほど、何ごともなく過ぎ無事に新年を迎えた。
あの結晶状の部品は、机の上に投げ出したままになっていた。
そして、正月気分も抜けてきた一月の最初の月曜日。一人の男が私の事務所へあらわれた。
仕立てのいい黒いスーツを着て、小柄で痩せてはいるが、よく鍛えられていることがわかるがっしりとした体格、髪は短く刈っていて、眼鏡の下のその眼は抜け目ない鋭さを感じさせた。
「私立探偵一条寺蓮さん。あなたですな」眼鏡を光らせながら男は言った。
「そうですが、あなたは?」
「私の名は式輝充。政府機関《冥王星委員会》に所属する者です」
「何ですかそれは?」
「いろいろ極秘事項がありまして、まあ公安関係と理解しておいてもらいたい」
「そうですか。まあどうぞ」と私は応接用の椅子を勧めた。「で、今日は何を?」
式は椅子に腰掛け、小さなモバイル端末を取り出すとちらりと画面に目を落としてから言った。
「あなたは昨年11月30日深夜、つまり12月1日未明ですが、月沢村で白石尚之氏の死体を確認した。間違いありませんね」
「ええ、確かに」
「では、これを見てください」と式は端末の画面をこちらに示した。
その液晶モニターに表示されていたのは、どこかの街中の雑踏を写した画像で、中央には茶色のコートの人物が歩く姿があった。その横顔は確かに白石尚之のようだった。
「これは?」
「わかりませんか。背景をよく見てください」
背景には商店街の飾りつけが見えていた。その垂幕にはこんな文字が書かれていた。
A Happy New Year 2008「どういうことだ、これは?」
「その写真は今年元旦に撮影されたものです。コンピュータで加工したなどと思わんでくださいよ。そんな手間をかけてまであなたを騙す理由はないんですから」
「待ってくれ、じゃあ……」
「そう、つまり、白石尚之は生きているということになりますな」
「ばかな。おれは確かに死体を見た」
「それが確実に白石本人と言い切れますかな?」
「……いや、ただジャケットとだいたいの体格は一致していたが……何しろ首がなかったし」
「そう、首の切断。その謎も、あの死体が別人のものであったとすれば説明が付く」
「つまり、はじめから自分が死んだと思わせ、他人と入れ替わるためにあの場所で……」
「そう、余計な目撃者のいる心配がなく、都合のいい証言をしてくれるだろうあなた一人を現場へ立ち会わせるために、あの夜、白石はあなたを月沢村へと連れだしたのです」
「あいつは何のためにそんなことを?」
「なぜでしょうな。われわれもそれを調査中です」
「あんたは公安と言ったな。なぜ公安の人間がこの事件を調べるんだ?」
「先にも言いましたが、いろいろ機密がありましてね。いや、実はわれわれはあるいはあなたも共犯ではないかと踏んでいたんだが、どうやら見込み違いだったようだ。では、そろそろお暇します」
式は立ち上がりながらスーツのポケットから名刺サイズのカードを取り出し、こちらへ差し出した。ただ11桁の数値が一行印刷されているだけのカードだった。
「電話番号です。もし白石尚之から連絡があった際にはそちらへお知らせ願います。何時でもかまいませんから。では」と、軽く頷いて式は事務所のドアを出て行った。
その日、私は知り合いの探偵社から回してもらった下請けの仕事をキャンセルしてしまった。
午後から白石の住んでいたマンションを見に行った。
だが、部屋はすでに片付けられ、郵便受けには空室の表示が出ていた。
白石がよく原稿を書いていた週刊誌の編集部に電話をしてみると、昨年後半ごろからは彼に原稿の依頼をしても、他に仕事があるのでと言って何度も断られたということだった。それがどんな仕事なのかはその編集者も知らなかった。
他にも出版関係の知り合いなどにあたってみたが白石のことで情報は得られなかった。
結局何の手掛りもないまま、夜になって私は探偵事務所へ帰った。
私は迷っていた。明日以降も金になる当てもないまま白石の件の調査を続けるか。それともまた浮気調査の尾行に戻るべきか。
その時、電話が鳴りだした。
私は受話器を上げた。「はい、こちら一条寺探偵事務所」
だが、相手は無言だった。ズザザーという雑音が聞こえた。
「もしもし」私は呼びかけた。
「……、い、ち……」
「えっ、何だって、よく聞こえないんだが」
「い……、ち、じょ……、じ」雑音の中から途切れ途切れに声が聞こえた。その声には確かに聞き覚えがあった。
「し、白石か?」
「そ、う……だ」
「おい、おまえ、やっぱり生きていたのか」
「うぅ……、きけ」
「なんだ、どうしたんだ?」
「し……ら、べ……ほ、しの……ち、え……ぅ、か、い……し、らべ……、ろ……」
雑音が激しくなり声は聞こえなくなった。
「おい、白石っ、聞こえない。何と言ったんだ。何を調べろと?」
電話は切れてしまった。
発信者の番号を表示させると〈44444444444〉となっていた。一応その番号にかけてみたが、どこにも通じなかった。
おかしい。今のは普通の通話ではなかった。声は確かに白石のものと思えたが、しゃべりかたは、まるで首を絞められながら必死で言葉を発しているかのようだった。
最後に聞き取れたのは確かに「調べろ」という単語だった。だが、何を?
私に思い出せるのは「ほしの……ちえ……かい」という、そんな苦しげな囁きだった。
2.
翌朝、私は早くからシルビアを出した。行く先は決まっていた。昨夜のうちにパソコンを使って、適当に当たりをつけて検索してみると〈星の智慧〉教会なるものが存在することが判明したのだった。
杉並区の住宅街の中にある一見普通の古びたマンションが〈星の智慧〉教会の本部だった。小さな看板を出している以外、外見からは宗教関係の施設とわかる特徴はなかったが、五階建てのマンション全体が教会によって専有されていた。
私は、車を近くの路上に止めマンションの玄関に入っていった。鍵はかかっていなかった。ひと気のないロビーの片隅にはテーブルがあり、その上には「星の声」というタイトルのパンフレットが置かれていた。一部手にとって中を見てみると教祖らしき人物の写真が載っていた。角ばった顎をした白髪の男で名は天光院大聖と記され、「『死霊秘法』の奥義により悟りを開いた大導師」などと説明されていた。
ロビーの奥には鍵のかかった扉があり、先へ進むにはインターフォンで人を呼ばなければならなかった。だが、いくらボタンを押しても応答はなかった。「ごめんください」と大声で呼んでみても返事はなく静まり返っていた。まるで建物全体が無人のようだった。
そこへ眼鏡をかけた坊主頭の若い男が一人息を切らせて駆け込んできた。宗教儀式用のものらしい奇妙な白装束を身に纏っていた。
「あれっ、なんですか、あなたは?」私に気づいて男は言った。
「いや、ちょっと見学させてもらおうと思って」
「こまったな、いまここは誰もいないんですよ」
「あなたは、ここの教会の人でしょ」
「えっ、ええ、そうですがね。ぼくはちょっと忘れ物をとりに来ただけなんで」
「では、ここのみなさんはどちらへ?」
「ああ、いや、ちょっと信者の方でないのなら教えられないんですよ。最近はそのマスコミやなんかもいろいろうるさくって」
「そうですか。何かあったんですか?」
「いや、ちょっと。とにかく忙しいもので」
そう言うと白装束の男はもう私のことは無視して「ああ忙しい、忙しい」とつぶやきながら鍵を開けドアの奥へ入っていってしまった。
私はマンションを出てシルビアに戻った。
近くに白いハイエースが駐車されていた。しばらく待っていると、マンションから黒い鞄を抱えて白装束の若い男が出てきて、ハイエースに乗り込んだ。
慌てたように走り出すその車を、私は尾行した。
白いハイエースは高速に乗って北へ向かっていた。
尾行には気づいていないようだった。普通の人間は尾行の有無など気にしないものだ。だが、私は気にしていた。〈星の智慧〉教会のマンションを出て、しばらくしてからずっと同じ黒いBMWがなんどもバックミラーに写っていた。ドライバーの顔は確認できなかった。
私はハイエースが高速を下りた時点で追跡をやめた。もう行き先はだいたい見当が付いたからだ。そこは以前、月沢村へ白石を送った時と同じ道だった。私は脇道へそれ、そこでBMWが追いついてくるのを待つことにした。だが尾行車はいつまでたっても現れなかった。単なる思い過ごしだったか、あるいはルートを変えたのか。
私はあらためて月沢村を目指すことにした。山道の行き止まりへ近づくと、道沿いに車が何台か見えた。マイクロバスや乗用車と並んで最後尾にあの白いハイエースが駐められていた。人の気配はなかった。車の数からすると百人近くが月沢村へ向かったと思われた。
そこからは徒歩で村へと向かった。近づくうちに何か唸り声のようなものがかすかに聞こえてきた。はじめは耳鳴りかと思った。だがさらに村へ近づくと、それは呪文の詠唱のようなものであることがわかった。低く唸るような大勢の男女の声が混ざり合って響いていた。
うざ・いぇい! うざ・いぇい!
いかあ はあ ぶほう――いい
らあん=てごす くとぅるう ふたぐん
らあん=てごす
らあん=てごす
らあん=てごす!
こんな呪文が途切れることなく繰り返されていた。
月沢村へ着いた。村の中央辺りの広場に篝火が炊かれているのが見えた。私は廃屋の陰に隠れながら近づいて様子を窺った。
白装束の人々が何十人も輪になって地面に座り、呪文を唱え続けていた。輪の中央には五芒星を円で囲った魔方陣のようなものが描かれ、そこへ胡坐をかいて座っているのが大導師と呼ばれる天光院大聖だった。
信者たちは目を閉じて両手を合わせ一心に呪文を唱えつづけていた。
しばらくすると、大導師の頭上1メートルほどのところ光り輝く点があらわれた。
輝点は次第に大きさを増し虹色の光芒を放ち始めた。
「おおっ、光が」信者の一人が気づいて声を上げた。
他の信者たちもざわつきだしたが大導師は呪文の詠唱をつづけていた。
やがて虹色の光芒に暗黒の裂け目が広がったかと思うと、そこから黒い翼の生物が飛び出してきた。巨大な青い甲殻生物でザリガニのような鋏と蝙蝠のような翼をもっていた。それはまぎれもなくあの白石の死んだ夜に飛び去った凶鳥の姿であった。
「うわぁぁぁっ」
「なんだあれは」信者たちが悲鳴を上げた。
青い甲殻生物は暗黒の裂け目より何体もつづけて舞い降りた。
その姿を目にして大導師は驚愕した。
「な、なんだ、お前達はっ。ちがうっ、いや、これがラーン=テゴスなのか……」
甲殻生物が大導師の首に巨大な鋏で切りつけた。
「ぐっ、があぁぁぁっ」血しぶきをあげながら切断された頭部が地面に転がった。
信者たちはたちまちパニックに陥った。叫び声をあげながら逃げ惑う人々へ甲殻生物は空中から襲いかかった。信者たちはつぎつぎと血を吹きながら倒されていった。
信者たちが村から逃げ去るまでに、十人ほどが犠牲になっていた。
甲殻生物は信者らを村の外までは追って行かず、倒れてもがいている者たちにとどめを刺し、それぞれ死体を引きずって一箇所に集め始めた。そして鋏状の手で、死体の首を切断していった。すべての死体から頭部を切り取ってしまうとそれを、虚空から取り出した金属性らしい円筒型の容器に詰め込んだ。すべての首の収容を終えた甲殻生物たちは、金属円筒を足でつかむと、翼を広げ、空高く舞い上がっていった。
十数体の黒い影は力強く上昇をつづけ、やがて空の彼方へと消え去っていった。
私はしばし茫然とその場に立ち尽くしていた。足元には頭部を失って血液をまきちらした死体かいくつも転がっている。自分の見たものを信じることが出来なかった。
「やれやれ、ひどいことになったもんだ」背後から誰かの声が聞こえた。
振り返るとそこには黒いスーツの男、式輝充が立っていた。
式は私と目が会うと、にやりと笑みを浮かべて言った。「おっと、今度は警察を呼んだりしないでくださいよ」
「BMWで尾けていたのはあんたか?」私は尋ねた。
「ええ、まあね」式は死体の一つに屈みこんで切断面の辺りを観察しながら言った。「死体はうちのほうで片付けておきますから、ご心配なく」
「これだけの事件を揉み消すつもりか?」
「そうせざるを得ないでしょうな。あなたにも少しばかり協力してもらう必要がある」
「協力……どういうことだ?」
式は立ち上がってこちらを向いた。
「なに、記憶の一部を消去するだけのことです。よけいな心配をしなくてすむようにね」
「記憶の消去だって、そんなことに協力する気はない」
「まあ、そう言わずに。消去がすめば、その後は不安もなく以前と変わらぬ日常を送れるようになるんですから」
「断る」
「そうですか。ならば仕方がない」
式の手にはいつの間にか奇妙な形をした拳銃が握られていた。
引き金に指が掛けられた。眩い閃光が視界を覆った。
ドサッ、と人が倒れる音を聞いた。
眩しさに目がくらんで何も見えなかった。
視力が戻ると、私は同じ場所に立っている事に気づいた。倒れたのは式輝充のほうだった。目の前には茶色のコートを着た人物が立っていた。
「白石……」
「すまなかったな、こんなことに巻き込んでしまって」白石尚之は言った。
「おまえ、……やっぱり、生きていたのか……」
「ああ、〈星の智慧〉教会が危険な儀式を行なおうとしているのがわかったので、おまえに止めてもらいたかったんだが、手遅れだったな。あの大導師、この村に異次元の通路があるのを感知したのまではよかったが、生半可な知識で邪神ラーン=テゴスを呼び出そうとはね。バカな真似をしたものだ。ユゴス星の甲殻生物たちが怒り狂うのも無理はない」
「おれには、どういうことだかさっぱり……」
「かれらは人間に自分たちの存在を知られることを好まない。しばらくはこちらへ出て来るのも控えるだろう」
「しかしおまえ、あの夜、ここにあったのはおまえの死体じゃなかったのか?」
「あれは確かにおれの身体だよ。あの時まではおれも本当に何も知らず、ただの取材のつもりだったんだ。しかし……」
「なんだ、何があったんだ?」
「昔は、脳だけ取り出して持っていったらしい。だが、近頃は首ごとだ、そうすればほら、人間に化けるのにも便利だからな」白石は両手を広げて自分の体を示して見せた。
「人間に……化ける……、お前は人間じゃないのか?」
「ああ、脳はもとのままだがね。すまないが、ゆっくり説明しているひまはなさそうだ。おれも行かなきゃならない」
「行くって、どこへ?」
「ユゴス……。いや、いずれ機会があったらその時に説明しよう。じゃあな」
そう言うと、白石は胸の前で、右手で左手首の大きな腕時計のようなものに触れた。
するとキィィーンという騒音が響き、ふたたび激しい閃光に視界を奪われた。
私はガラスの砕け散る音を聞いた。そして、大きな翼の羽ばたく気配だけを感じていた。
やがて、騒音と光の奔流がやんだ時には、もう羽ばたくものの姿は消えていた。足元に倒れているのは、茶色のコートを着た身体で、首から上はなくなっていた。
その身体は人間のものではなかった。外形だけ人体を模造したその中身は、あの六角柱の結晶状の部品がぎっしりと詰め込まれていたのだった。
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