2012年12月23日日曜日

不死者の遺産


1.

 その日、私は朝早くに受けた電話に応じ、依頼人の家を訪ねていた。住所は西日暮里。新築マンションの裏手で、午前中から日差しの遮られた一角にある、古びた木造二階建ての一軒家だった。
 インターフォンを押すと、玄関に姿を見せたのは五十代くらいの上品な感じの女性だった。表情には、どこか疲れきった様子が浮かんでいた。彼女が依頼人の津村光枝だった。
 私は応接間へと通された。外見は古びているが家の中は明るく清潔な感じに保たれていた。
「先月、足立区であった家の中で男性がミイラ化していたという事件についてはご存知ですね」光枝は言った。
「ええ、テレビなどで報じられている程度のことは」
 それは、家族が死んだ111歳の老人を室内に放置しつづけていたという事件である。目的は年金の不正受給とみられていた。その後、都内最高齢とされる113歳の女性も行方不明であることが発覚し、さらには各地で似たような事例の報告が相次いだため、各マスコミでも大きく取り上げられ、自治体が百歳以上の高齢者の所在確認をおこなうという事態にまで至っていた。一説には所在を確認できない老人の数は20万人以上にものぼるという。
「それで……、うちにも役所の方が見えて……」
「と言うと、やはり所在確認で?」
「ええ、それで驚いてしまって、何しろ父と最後に別れてから、もう18年も経っているんです。歳も歳ですから私はてっきり、もう死んでいるものと……、でも役所の人は死亡届は出されていないと」
「その18年前に別れたというのは、どういった事情で?」
「それがですね、私には姉が二人おりまして……」と光枝は語り始めた。
 彼女には和世と文子という二人の姉がいた。姉といっても母親は別で、光枝だけが後妻の子なのだった。そのため姉たちから彼女はまるで愛人の子であるかのような扱いを受けていたという。じっさい光枝の母は、彼女らの父、鴇田精爾と付き合い始めた当初は不倫関係なのであった。先妻が早くに死んだのも、その気苦労が原因だろうと思われていて、光枝は二人の姉から恨まれていた。その光枝の母も20年ほど前、病気で亡くなった。娘たちは三人ともそれぞれ結婚して家を出ていたため、老齢の精爾はこの家に一人になった。そこで光枝は夫とともにこの家に越してきて、父の面倒を見ることにした。その時、精爾はすでに90を越える年齢だった。しばらくして精爾は心臓病で倒れ、入院することとなった。すると突然、姉二人が押しかけてきて「もっといい病院へ入れる」と言って精爾を連れ出してしまった。それ以来、光枝は父の消息を知らないと言う。それというのも、光枝は姉たちから、遺産を独り占めしようとしていると疑われたのが原因だった。
 鴇田精爾には、バブルのころに土地を処分したために、かなりの額の貯金があった。光枝は遺産など当てにはしていないと言った。だが、姉たちにそう疑われていると思うと、自分から連絡をとる気には、どうしてもなれなかったのだ。そのため18年もの間、生死の確認すらできずにいたのだった。
 はじめのうちは父の身を案じていた光枝だったが、2年3年と経つうちに、いつしか父はもう死んだのだろう、そして自分には知らせずに葬式を済ませてしまったのだろう、と思うようになっていったということだった。
 光枝は続けた。「それで先日、役所の人が来たときに、初めて上の姉、和世さんに電話をしたのです。すると姉は、父は自分のところで元気に生きている、必要な手続きはこちらでしておくから、お前は何も心配しなくていい、と言うのです。私はそれなら父と話をさせて欲しいと言ったのですが、姉はいずれ連絡するからと言って電話を切ってしまいました。役所の人に事情を説明すると、姉の住んでいる地域の市役所に引き継ぐと言って帰っていきました。姉は二人とも今は埼玉県に住んでます」
「その後、連絡は?」
「いいえ、何も……。でも、本当に父が生きていたなんて……、とても信じられなくて、それにニュースなどでいろいろ言われているのを見ているうちに、何だか不安になってきてしまって……、それで探偵さんに調べていただきたくて」
「そうですか。事情はわかりました。それでその、鴇田精爾さんですが、生きているとして、お幾つなのでしょう?」
「112歳になります」


 私のスカイラインGTは、北区を横断し、荒川を越えて埼玉県へ入った。
 津村光枝の望みは、父親が生きているのか死んでいるのか、それさえはっきりすればいいということだった。ならば、とにかく姉の家を当たってみるまでだ。
 鴇田精爾の長女、吉崎和世の家は蕨市にあった。夫は公務員ですでに定年退職しているという。だとすれば、まさか年金の不正受給ということはないだろう。
 私は吉崎家を見つけ車を止めた。生垣で囲われた古い日本家屋だ。
 日射しが眩しかった。この年は9月に入っても真夏日がつづいていて、その日もひどく暑かった。
 玄関に姿をみせたのは、一見して派手な印象の女性だった。大きな目と大きな口をより目立たせるような化粧をしていて、パーマをかけた髪は黒く艶めいていた。大きな花びら模様のワンピースを着ている。
 私は偽の肩書きの入った名刺を差し出した。
「NPO法人《きぼう》の一条寺蓮といいます」
「はあ、何でしょうか?」
「こちらに鴇田精爾さんという方がお住まいですね?」
 吉崎和世は表情をこわばらせた。「あの、何の御用でしょうか?」
「百歳以上のお年寄りの方の生活状況の調査でして」
「そんな、急にこられても困ります。うちだって忙しいんですから」
「すみません。とりあえず、鴇田さんのお姿だけでも確認させていただければ、すぐ帰ります」
「それが、うちにはいないんですのよ」
「えっ、いないんですか。市役所の所在確認の人は来ませんでしたか?」
「ええ、それだったら昨日。昨日まではうちにいましたから」
「それで、今はどちらに?」
「老人ホームに行ってます。父は以前からそこに入っていて、この数日はうちへ戻ってきていたんです」
「そうでしたか。その老人ホームの名前、教えてもらえますか?」
「それは教えられませんよ」
「なぜですか?」
「そりゃあなた、きちんとした施設にあずけてあるんですから。それでじゅうぶんでしょう」
「いや、最近はいろいろ問題のある老人ホームもありますから」
「きちんとした所だって言ってるでしょう。もう、お帰りになってくださいますか」
 これ以上は、取り付く島もないようだった。
「はい、失礼します」
 私はその場を離れ、車にもどった。


 津村光枝にはもう一人姉がいる。次女の勝文子だ。住所はさいたま市。さいたま新都心近くの分譲住宅に住んでいた。周囲には同じ形の家が何軒も並んでいる。夫は実業家でブティックなどを何軒か経営しているらしい。
 勝と表札のついた家を見つけて、道路の反対側に車を止めた。
 ちょうどそこへやってきたプリウスが、勝家の駐車スペースに停止した。ドアが開き、買い物袋を抱えた女性が降りてきた。白いブラウスに白いスパッツ、髪はオレンジに染めていた。老いた女がむりやり若作りにしている感じだった。
「こんにちは」と私は声をかけた。「勝文子さんですか?」
「そうですよ。ちょっと待っててくださいね」
 女は鍵を開け家のなかに入ると、買い物袋を片付け、また出てきた。「何の用かしら?」
 私は名刺を渡し、長女の時と同じ用件を告げた。
「父のことは姉に全部任せてますから、私は何も知らないんですよ」
「先ほどお姉さんに会ってきた所です」
「あら、それじゃあもう私から話すことなんて何も……」
「文子さんが最近お父さんに会われたのはいつですか?」
「私は……、もうずっと……」彼女は私から目を逸らし、所在なさ気に地面を見つめた。
「老人ホームに入ってるそうですね?」
「えっ、ええ……」俯いたまま彼女は言った。「それが何か……?」
「昨日までお姉さんの家に帰っていたそうですよ、鴇田精爾さんが」
「そんな」と女は私を見た。「わ、私は何も……、本当に姉に任せっきりなんですから」
「その老人ホームの名前はご存知ですか?」
「ええ、知ってますけど」
「教えてくれますか?」
「なぜ私に……、姉には聞かなかったんですか?」
「もちろん聞きましたよ。でもなぜか教えてくれないのです」
 すると勝文子は、くるりとふり返り、ドアを開け家の中へ入ってしまった。
 私は途方にくれ、その場に立ち尽くしていた。
 しばらくすると文子は出てきた。
「すべて姉が考えたことです。本当に私は何も知らないんだから」そう言うと彼女は手にしていたものをこちらへ差し出した。
 それは老人ホームのパンフレットだった。


 私は車に戻りパンフレットを子細に眺めた。
 まるでリゾート・ホテルのような緑豊かな施設の様子が写真入りで詳しく解説されている。書かれている内容がすべて本当なら、かなり高級な施設のようだ。
 だが、このパンフレットには奇妙な点がひとつあった。肝心の施設の所在地がどこなのか一言も記載されていないのだった。連絡先として記されている住所は東京都新宿区のものだ。これは運営会社の事務所だろう。社名はアルタード・ハート・マザーとなっていた。
 私は昼食をとり、スカイラインにガソリンを補給してから都内へと戻った。明治通り、大久保通り、山手通りと南下し、新宿区と渋谷区との境界附近まで来た。初台のオペラシティ近くにその住所はあった。ガラスと金属だけで構築されているように見える凝ったデザインのビルで、最上部の8階と9階がアルタード・ハート・マザー社のオフィスになっていた。
 静まりかえったロビーに入っていくと、鏡張りのエレベーターのドアが自動的に開いた。私はそれに乗って8のボタンを押した。
 エレベーターを降りるとすぐに、アルタード・ハート・マザー社の受付になっていた。人の皮膚を思わせるような淡いベージュの色調で、曲線ばかりで構成されたインテリアだった。柔らかな暖色のライトに照らされたカウンターに、紺色のスーツを着た女性が座っていた。とても痩せていて、人形のように無表情だった。
「いらっしゃいませ」クールな声で彼女は言った。
「あの、老人ホームのことなんですが……」
「はい。ご検討の方ですか、奥がモデル・ルームになっております」
「あ、いや、とりあえずですね、こちらで経営している施設の所在地を知りたいのですが」
「それは、ご利用の方以外にはお教えできないことになっています」
「私は、こちらの施設に入ってる老人の身内の人の代理の者なんですけど」
「はあ」受付の女性は怪訝そうな表情になって私を見た。「身内の方でしたら、施設の場所はご存知のはずですけど……」
「いや、身内と言ってもですね、いろいろ事情があって親族の間でも連絡が取れない場合もあるわけですよ」
「少々お待ちください」そういうと彼女は立って、奥にあるドアに入っていった。
 しばらくすると、そのドアから、胸に社名の入った黄色のブレザーを着た男が現れた。小太りな体つきで、角ばった顔だちだった。
「私、ここの責任者の福元と申します」その男は、胸の前で組んだ両手をぷるぷると振りながら言った。「で、うちの施設をご利用いただいてる方というのは?」
「鴇田精爾さんという人です」
「ああ鴇田様ですか、よく存じ上げております。ええ、それで、あなた様は……?」
「一条寺蓮。私立探偵です」
「ほお、探偵ですか……。といいますと、どなたか鴇田様のお身内の方からの依頼ということでしょうか?」
「ええ、鴇田さんの娘の津村光枝さんです」
「なるほど、しかしですね、当方といたしましては、ご老人の方には、世間から離れて安らかに余生を過ごしていただくというのがモットーでして、ご当人が望まれない限りは住所などをお教えするわけにはいかないのですよ」
「では、鴇田さん本人が望めば、教えてもらえるんですね?」
「はい、ですから、こうしましょう。私どもの方から鴇田様へ、娘さん、津村光枝様ですね、その方が連絡を取りたがっておられるということをお伝えするということでいかがでしょうか?」
「ええ、いいでしょう」
 私は津村光枝の連絡先を福元に教え、そのフロアを出た。


 津村光枝に電話をかけて、私は今までの経過を報告した。
 一通り話を聞くと彼女はぽつりと「連絡は来るのでしょうか」と言った。
 私は「わからない」と答えた。
「やっぱり、父がまだ生きているなんてとても信じられない」彼女はつぶやくように言った。


2.

「ところで、鴇田精爾さんは遺言状を弁護士に託してはいませんでしたか?」と私は尋ねた。
 光枝は、しばらく家の中を探して一枚の名刺を見つけ出した。掛川信一郎というのがその弁護士の名だった。事務所は文京区本郷にあった。私は電話でアポイントメントを取ってそこへ向かった。
 掛川信一郎法律事務所は、レンガ色のタイルで覆われた、横に長い2階建ての建物の中にあった。1階は大きな喫茶店で、2階に歯科医と法律事務所が入っていた。
 ドアを開いて事務所の中へ入ると、助手らしい女性が応接用のソファーに案内してくれた。すぐに、くたびれた感じのグレーのスーツを着た男が姿を見せた。白髪混じりの頭で分厚い眼鏡をかけていた。風貌からはもう70を越えているのではないかと思えた。弁護士に定年はないというから、実際そんな年齢なのかもしれない。
「どうも、掛川です」と言って男は向かい側の席に腰をおろした。
 すでに電話で鴇田精爾の遺言状の件で来訪することは伝えてあった。私は「遺言状の内容を知りたいのですが」と切り出した。
「ええ、当然のことながら」と掛川は眼鏡のフレームを押さえながら言った。「他人に、死亡の確認のされていない人物の遺言状を開示するという事は有り得ません。ですが、何か特別な事情がおありでしたら、協力できることもあるかもしれません」
「掛川さんは、鴇田氏から遺言を託された時のことは記憶されていますか?」
「ええ、よく憶えていますよ。正直、あの方がまだ存命とは驚きでした。遺言を聞いたのは心臓病で倒れられ、病院のベッドでのことでしたから……。しかし人間の生命力というものは常識だけでは計り知れないものがあるのも事実です。ちょっとしたきっかけで持ち直すということも考えられないことではありません。確かこの方は、娘さんの勧めで病院を移られることに決まっていたんではありませんか」
「三人の娘のうち上の二人の姉が病院を移しました」
「もともと、末の三女の方が父上と一緒に暮らしていたんですね」
「そうです。そこでですね、遺言の内容なのですが、この三女だけに遺産のすべてを、そうでなくても多く分配して、相続させるというようなことは、なかったでしょうか?」
「ふむ、だとすれば、どういうことになりますかな」
「この三女は、母親が違うこともあって二人の姉からは疎まれていたらしいのです。そこで姉たちが遺産を妹に渡したくないと考えた場合、父親が死んでも、それを隠しておくことで、姉たちだけで遺産を分けることもできるというわけです」
「ふうむ」弁護士は腕を組んでしばらく考えてから言った。「そうですな。あなたがその線に沿って調査を進めるとしても、私は止めはしませんよ。まあ、私に言えるのはここまでです」
「いや、じゅうぶんです。ありがとうございます」
 私は頭を下げて立ち上がろうとした。それを引き止めるように掛川は言った。
「しかし、死体を隠しておくということは、そう簡単にできることではありませんな」
「鴇田氏は、ある老人ホームに入っていることになっています」
「というと……?」
「アルタード・ハート・マザーという名です」
「ほお、その名前どこかで……」
「知っているのですか?」
「いや、知っているというほどではないが、耳にしたことがあるのは確かです。そうですね、この種の問題に詳しい者に問い合わせてみましょう。もし何かわかったら連絡を差し上げますよ」
「お願いします」と言って私は法律事務所を出た。


 その日の夜、9時を回った頃。私の事務所と兼用の住居へ訪問者があった。
 小柄で痩せた男だった。
 シックな茶色のスーツを着て、シャツは鮮やかなグリーン、ネクタイはオレンジだった。頭には山高帽をかぶって、皮の手袋をした手には銀の取っ手の付いたステッキを持っていた。
 浅黒い日に焼けた肌をして、細く整った口ひげを生やしていた。
「あなた、アルタード・ハート・マザーを調べてますね?」妙な訛りのある口調で男は言った。
「ん、ああ、誰から聞いたんだ?」
「そりゃあ、あなた、弁護士のところに行ったでしょう」
「掛川弁護士の知り合いか?」
「いやいや、直接知り合いというわけではありません。でも、情報は流れてきますね……げひっ、げひっ、げひ」彼は笑ってるのか咳き込んでいるのかわからないような音をたてて肩を震わせた。
「だいじょうぶかい、あんた」
「いや、失礼」と男はハンカチで口もとを拭いながら言った。
「で、あんたは何者だい?」
「そう……、《セトの従者》とでも呼んでもらいましょうか」
「ふむ、ああ、名前は何でもいいが、職業は?」
「職業ね、まあ、情報屋と思ってもらえばいい」
「じゃあ、金を取るって言うのか?」
「いやいやいや、今日のところは初回サービスってことでね。おたがい信用を確かめ合って、それからお付き合いをはじめましょうよ……げひっ、げひっ」
「タダなら話ぐらいは聞いてやるが」
「だから、アルタード・ハート・マザーよ。いわゆる“消えた高齢者”の行方を追って、そこへ行き着いたって話は、何も、あなたが追ってる一件だけじゃあない。そしてこの組織の実態は、いくら調べてもわからない……」
「それで?」
「そう、それで、この会社、じっさいいくつか老人ホームを経営してるのは紛れもない事実。だがこれはたいした規模じゃない。ようするにダミーよ。何か問題があったとき、いろいろごまかしが効くからね。たとえば、今回のように役所が老人の所在を確認する何てことになっても、替え玉を用意する役にもたつ」
「替え玉?」
「そそ、身内の人間、「これ、お父さんです」言えば、役人は疑いようがないね」
「なるほど」吉崎和世もこの手を使ったのかもしれない。「で、消えた高齢者たちはどうなったんだ?」
「それが、わからない。でも、どうも財産を奪って山奥に埋めたとか、そんな単純な話じゃないようですね」
「しかし、他にどんな目的が?」
「あそこの経営者は、表向きは福元っていう男ということになってますが、じつは黒幕が他にいる。これが、まだ若い女ね、いってもそう30くらいの」
「女……」
「んん、沙漠谷エリという名前、すごい美女らしいという他は、いっさい素性不明。この名前も偽名でしょう」
「妙な名だな」
「エリ・エリ・レマ・サバクタニ……、十字架にかけられたキリストの最後の言葉です。神よ、なぜ私を見捨てたのか、という意味ね」
「謎の美女か……、一度お目にかかりたいね」
「会いに行きますか?」
「居場所がわかるならね」
「私知ってます。横須賀のある倉庫。この女、大概そこにいる」
「何だって倉庫なんかに?」
「さあねえ、だがその倉庫には、例の消えた高齢者たちも集められています。皆、金持ちで、死ぬ間際だった老人たち。今も生きているのか、それとも死んでいるのかは、誰も知らない、げひっ、げひっ、げひっ」


 行く気があるなら今から案内する、と《セトの従者》は言った。
 彼の車は黒のシトロエン2CVだった。私はその助手席に乗り込んだ。
「その女、こんな時間にいるのか?」運転する男に私は尋ねた。
「ああ、やつら、夜のほうが活発になる」
「倉庫に着いたらどうする、忍び込むのか?」
「いや、あなた、ドアをノックする」
「それで、開けてくれるのか?」
「秘密のノックがある。これを探り出すには苦労したね。やつら車が近くに止まってるだけでドアに近づかない。だが、こっちは高性能マイクを使った。まず3回、1回、4回とノックする。それで開かなければ、つぎは1回、5回、それでも開かなければ9回……、これが何だかわかりますか?」
「さあね」
「3.14159……、何のことはない円周率の数字。順に辿るだけ」
「それなら15桁まで憶えてる。ドアが開いたら、それからどうする?」
「あなたの用件を言えばいい、消えた老人を探してる」
「それで?」
「後はわかりません。でも、秘密のノック知っている人間、追い返したりはしないはずね」
「中に入れるのはいいが、そのまま出てこられないなんてことはないだろうな」
「だいじょうぶ、いざとなったら警察、呼んであげます」
「あんたが自分で調べに入ったらどうなんだ?」
「私、そういうことしない主義。情報を売るのが私の仕事。危険を買う、あなたの仕事でしょう……げひっ、げひっ」と、《セトの従者》はまた肩を震わせはじめた。
 横須賀に着いたのは、もう真夜中だった。
 そこは対岸に米軍施設が望める、倉庫街の外れの辺りだった。人の気配は全くない。
「あそこだ」《セトの従者》が指を差した。
 白い倉庫が周囲から隔絶したように建っていた。
 中でジェット機でも組み立てられそうな大きさだった。
 側面に小さな黒いドアがあった。
 私が降りると2CVはゆっくりバックして離れていった。
 私はドアの前に立つと、3、1、4とノックした。しばらく待っても何の気配なかった。試しにノブを回してみた。開かない、ロックされている。
 1、5とノックした。何の反応もない。
 今度は少し強めに9回のノックを叩いた。
 するとガチッというオートロックが解除された時のような音がした。
 ノブを回すと、ドアはすんなりと開いた。冷気が流れ出してきて足首のあたりにまとわりついた。
 中は真っ暗で、誰もいないようだった。
 だがよく見ると、奥にぼんやりとした明りがあった。
 ドアから少し先に、すだれ状に切れ目の入ったビニールのカーテンがあった。その向こうに点々と何か光るものが並んでいるのだった。
 私はカーテンをくぐって奥へと進んだ。いっそう気温が下がり、寒さが身に沁みた。
 物の輪郭がやっと見分けられる程度の明るさしかなかった。床には、タンクのような物が無数の配管と電気コードでつながれ並んでいた。それが広い倉庫の床を埋め尽すだけの数があった。タンクの一部がガラス張りになっていて、そこから光が漏れているのだった。まるで棺のように見える。
 鼻腔を刺激する薬品の臭いが漂っていた。モーターの作動する低い唸りが響き、かすかに水の流れるような音も聞こえた。
 タンクのひとつに近づいてみた。ガラスの部分から内部を覗ける。
「な、なんだこれは……!?」
 そこには淡いグリーンの液体が満たされていて、中に頭の禿げた老人の顔があった。
 となりのタンクを覗くと、痩せこけた老婆が薬液に浸かっていた。
「一体……これは……?」
 その時、不意に天井の蛍光灯が一斉にちかちかと瞬き、点された。
 まぶしさに眼が眩んだ。
 コツコツという靴音が聞こえた。ハイヒールが床を歩く音だった。誰かが近づいてくる。
 フードつきの白いコートを着た女だった。白い肌をして、ストレートの黒髪を肩の上で切りそろえていた。
「あなたは誰?」女は言った。
「私立探偵、一条寺蓮だ」
「ああ、昼間、初台の事務所に見えた方ね?」
「そうだ、あんたが沙漠谷エリか?」
「どうして私の名を、それに、なぜこの場所がわかったの?」
「《セトの従者》から聞いた」
「それは何?」
「おれもよく知らないんだが。情報屋らしい」
「そう、そう言えば、近頃ここを監視している男がいたわ。ノックの秘密もその男から聞いたのね」
「そうだ」
 女はそれでもう侵入者には興味を失ったというようにタンクの間を歩き出した。まるで花壇でも見回るような感じだった。
 私は問いかけた。「この機械は、一体何なんだ?」
「これはコールド・スリープ、つまり冷凍睡眠のための装置です」
「冷凍……睡眠……?」
「人の寿命の飛躍的な延長が可能になります」
「ばかな、そんな技術が実現したなんて話、聞いたこともない」
「ええ、世間はまだ知りません。でも、ご覧のとおり装置は現実に稼動しています」
「こんな物、ただ、死んだ老人を氷漬けにしてるだけじゃないのか」
「そんなことをして何になるというのです」
「財産を巻き上げるためだろう。ここに集められたのは金持ちの老人ばかりと聞いたぞ」
「そう、資金を得るのもひとつの目的です。ここを維持するためにはそれなりの費用がかかりますからね。でも、老人たちは決して死んでしまったわけではありません。眠っているのです」
「それなら、試しに一人、目覚めさせて欲しいね」
「冷凍睡眠からの覚醒には長い時間が必要なのです。ですから、今ここでお見せするというわけにはいきません。しかし、すで目覚めた人は何人もいます。私もそのうちの一人」
「あんたが!?」
「ふふ、私の本当の年齢を知ったら、あなたはきっと驚くでしょうね」
「嘘だ。あんたはただの詐欺師だ」
 女は足を止め、ひとつのタンクを指差した。「ほら、あなたがお探しの鴇田精爾さんもここに。よく眠っていらっしゃるわ」
 私はそこへ行って中を覗き込んだ。液体に浸かった老人の顔があった。色のついた薬液のせいで皮膚の色はよくわからない。目を閉じたその表情は安らかに眠っているようにも見えた。
「信じられん。やっぱり死んでいるんだ」
「いずれ、時が来ればあなたにも、わかるでしょう」
「だいたい、そんな立派なものなら、なぜこんな秘密めかした場所でこそこそしている必要がある。なぜ公表しないんだ?」
「それは、私たちの用いる方法が、正統科学によっては理解できないものだからです」
「正統科学では理解できない……、そういうのをインチキって言うんじゃないか」
「あまり大声を立てないでください。老人の眠りを乱すべきではないと言うでしょう」
「いいさ、とにかくここでやってることは警察に知らせる。まだ生きていた老人を氷漬けにしたのなら、殺人の疑いもあるからな」
「では、仕方がありませんね。あなたにも見せてあげましょう」
「見せるって、何を?」
「老人たちの魂が眠る場所」
「何だ、それは?」
「あなたは行くのです。夢の都市セレファイスへ」
 女は人差し指を私の目の前へと突きつけた。彼女の両眼が十字型の光芒を放って輝き出した。
「な、何だ……、うわあぁぁぁっ」
 床が回転しはじめ、視界が渦巻状に歪んでいった。


 ……
 私は、無限の暗黒の中をどこまでも落下していた。
 落ちていく方向から、光が射してきた。


 ……
 気がつくと私は見知らぬ街路に立っていた。
 ゴツゴツした黒い石畳の道がのびていた。建物もすべて黒ずんだ石造りだった。
 とても静かだ。
 ここはどこだ。日本ではないようだ。東欧の古い都市だろうか。
 建築物は一見アラブ風でもあるが、よく見ると、地球のものとは思えない奇怪な彫刻で装飾されていた。窓ガラスはほとんど割れて無くなっている。残っている部分にはステンドグラスのように色のついた細かいガラスが埋め込まれていた。
 空はいちめん雲に覆われていた。灰色のグラデーションが幾層にも重なっていて、ところどころにある切れ間からは、異様な色彩が微光を放っていた。
 私は黒い町の中を歩きだした。どこまで行っても人の姿はなかった。物音ひとつしない。まるでゴーストタウンだ。
 円形の広場に出た。中央には複雑な形状の噴水のようなものが据えられていた。水は涸れていて、黄色い煮凝りのような物質があちこちにこびりついていた。
 かすかに獣の叫びのような響きが聞こえてきた。いくつもの咆哮が重なり合っているようにつづいていた。
 私は叫び声のした方へ向かった。進むうちに獣の声にまじって、繊細な旋律を持った笛の音のようなものが聞こえてきた。
 やがて黒い石畳が途切れた場所に来た。そこから先は地面が陥没していて、巨大なクレーターのようになっているのだった。道の端から見下ろすと、そこには無数の影が蠢いていた。人型の生物の群集だ。だが、それは人間ではなかった。全身黒い毛に覆われ、長い腕をたらしながら前かがみになって走り回る、猿人のような種族だった。
 黒い猿人たちは、手に手に棍棒や石くれを握り、それを中央にいる異様な存在めがけて投げつけていた。攻撃しているのか、あるいは崇拝の儀式のようにも見えた。
 影の群れの中心にいるのは、巨大な黒いイソギンチャクのような生物だった。
 それは、無数の触手をゆらめかせながら、フルートのような音色を発しているのだった。石を投げつけられても意に介する様子もなく、時おり何本かの触手を伸ばしては、絶叫する猿人を捕らえ、触手の束の中へと飲み込んでいた。
「な……何なんだ、これは……!?」思わず口から言葉が漏れた。
 その時、背後からフルートの音が鳴るのが聞こえた。
 ふり返ると、いつの間にかそこにも、黒いイソギンチャクが、ナメクジのように這いながら近づいてきていた。全長3メートルほどもある大きさだ。
「うっ、うわあぁ」私は驚き、尻餅をつきながら後ずさった。
 触手が伸ばされ、足首に巻きついた。私の身体は軽々とかかえ上げられた。
「うわああああああああああぁ」


 ……
「おい、しっかりしろっ」
 私の身体は乱暴にゆすられていた。
 気がつくとそこは、あの冷凍睡眠装置が並んだ倉庫だった。
 正面のゲートが開かれ、外に赤い回転灯をつけたパトカーが並んでいるのが見えた。空は暁の紫色に染まっていた。
 捜査員がフラッシュを焚いて写真を取っていた。
「大丈夫か?」私の肩をつかんだ男が言った。
「あ、ああ」
 その男は刑事だった。
 警察署へ同行を求められ、私は同意した。


 その事件は〈コールドスリープ詐欺〉としてマスコミでも大いに取沙汰された。
 タンクの中の老人たちは、やはり全て死亡していた。皆、遺産相続などでトラブルを抱えているか、あるいは不治の病に冒され治療法の進歩した未来に望みをかけた人々だった。
 首謀者とされたのは、初台の事務所で会った福元という男だった。
 沙漠谷エリの名は、なぜか一度もマスコミの話題に上ることはなかった。彼女が逮捕されたのか、それとも逃亡したのか私は知らない。
 《セトの従者》と名乗る情報屋もあれきり連絡してこない。
 だが、私の脳裡には、あの黒い町で目にした光景がくっきりと焼きつけられいていた。
「夢の都市セレファイス……」その名が、今でも時おり幻聴のように甦ることがある。

0 件のコメント:

コメントを投稿