2014年5月11日日曜日

アシュメラ

「ねえ、この辺に喫茶店なかったっけ?」と、川原未知佳は尋ねた。
 高校からの帰り道、駅までつづく商店街を未知佳は、よくいっしょに帰る仲のいい友人の泉田日夏と歩いていた。
「あるんじゃないの。何で?」
「うん、今日の朝ね、お母さんが突然、千円くれたんだ。お友だちとケーキでも食べたらって」
「えっ、未知佳のお母さんいきなり千円もくれるの。何ていいお母さんなのかしら」
「ううん、いつもはそんなことないんだよ。ほんと、今日だけ突然。よっぽどいいことでもあったのかなって」
「ふうん。で、喫茶店?」
「うん、何か古うい喫茶店に入ってみたいんだよね。そんな気分」
「いいよ、いいよ。スポンサーは未知佳だもんね。探しましょう古くてボロい喫茶店を」
「ボロくなくてもいいんだよ」
 そして二人は、商店街から裏道へ少し入ったところで、望みどおりの喫茶店を見つけた。オレンジ色の庇テントに白抜きで〈喫茶リオ〉と店名が記されていた。古びてはいるが、まあ小奇麗な店だった。入り口の脇にイーゼルに乗せた小型の黒板があってメニューが書かれていた。
「チーズケーキセットが六百円だって」
「ここにしよっか」
「うん」
 二人は中へ入った。白熱灯の照明で、薄暗い店内に客の姿はなく、カウンターの奥で白いあごひげを生やしたマスターが、駒をならべたチェス盤を前に一人で考えこんでいた。
「いらっしゃい。お好きな席へどうぞ」
 どこに座るか迷っている未知佳を日夏が奥のテーブルへと押して行った。
 入り口からはカウンターの陰にあたる奥まった壁には大きな絵が飾られていた。
 その絵を目にした途端、未知佳は足を止めた。
 熱帯のジャングルにあるような奇妙な植物が左右に配され、中央には赤い悪魔の石像らしきものが描かれた絵だった。後方にはレンガ造りの花壇のようなものも描き込まれていて、背景は夕暮れを思わせる紫がかったグリーンの空だった。
 未知佳は絵に目を奪われているようだった。
「アシュメラ……」不意に、未知佳の口からそんな言葉が漏れた。
 お冷を持ってきたマスターが背後から声をかけた。
「ん、お嬢さん、今何と言ったのかな?」
「えっ、私、今……?」未知佳は自分でも何をつぶやいたのかわからず戸惑っていた。
「ちょっと、早く座んなさいよ。ごめんなさい。この子ときどきおかしなことを口走るもので、気にしないでください」とりなすように日夏が言った。
 二人がともにチーズケーキ・セットを注文してマスターが去ると未知佳は小声で聞いた。「私、何て言ってた?」
「んん、アシュメラとか、そんなこと言ってたね」
「アシュメラ、って何?」
「私が知るわけないでしょ、お嬢さん」
「なんか自然と口から出ちゃったんだよね、この絵を見たら」
「この絵ねえ。知ってんの?」
「ううん、知らないけど……、でも、なんか見憶えはある気がするんだよね」
「ふうん、不思議な絵ね」
 日夏は携帯電話を取り出すと、その絵を写真に撮った。
「だめよ、勝手に撮っちゃ」
 未知佳が注意すると日夏は舌を出してとぼけた。
 チーズケーキが来ると、二人はいつもの調子でくだらないおしゃべりをはじめた。その店には一時間ほどいたが、未知佳はずっと絵のことが気になっていた。

 夕食の時、未知佳は母親に尋ねた。
「ねえ、お母さん、駅前の商店街の近くにある〈リオ〉って喫茶店知ってる?」
「知らない」未知佳の母、万理絵は言った。
「今日、帰りにそこで日夏とチーズケーキ食べたんだ」
「そう、よかったじゃない」
「で、そのお店の中にね、絵が飾ってあったんだけど」
「絵?」
「うん、絵。その絵がさ、なんか昔、見たことがある気がするんだよね」
「どんな絵なの?」
「真ん中に赤い悪魔みたいなやつが描いてあるの」
「そう、じゃあ、未知佳さんあなた悪魔に会ったことがあるっていうの?」
「そういうことじゃないよ。悪魔って言っても石の像みたいなやつだし……、ううん、そうじゃなくて、その絵を見たことがあるんじゃないかってこと」そう言いながらも未知佳は、自分はじつはあの絵の元になった風景を見たことがあるんじゃないかという気もしてきた。
「そういうのは、デジャヴって言うのよ。じっさいは見たことがなくても、見たことがあるような気がするって、よくあることなのよ」
「デジャヴは知ってるけどさあ、そういう感じでもないんだよね」
「そんなにその絵が気に入ったの?」
「気に入ったわけじゃないんだよ。どこで見たのか気になるだけ」
「ふうん、おかしな子」とくに関心もなさそうに万理絵は言った。
 しばらく黙って食事をつづけてから、未知佳は聞いた。
「ねえ、お父さんて、絵を描く人だった?」
「ううん、お父さんはどちらかと言えばスポーツマンだし、絵なんて描かないわ」
「そう」
 母がまともに答えてくれたので、未知佳は内心ほっとしていた。父の話題が出たのはずいぶん久しぶりのことだった。以前は、父のことを尋ねると母はヒステリックなまでに怒り出すのが常だったからだ。
 未知佳の父は十年ほど前、交通事故で亡くなっていた。それ以来、万理絵はインテリア・デザインの仕事をしながら一人で未知佳を育ててきたのだ。

 翌日、未知佳は校内の図書室で画集を開いていた。
 あの絵のことが気になって仕方がないのだ。
 図書室には美術関係の本は多くはなかったので、すぐに一通り目を通してしまった。その中ではゴーギャンの熱帯の絵と雰囲気が似ていた。と言っても、タッチや色の感じが多少似ている程度で、同じ作者のものとは思えなかった。何となく未知佳は、あの絵を描いたのは日本人ではないか、と思っていた。
 その日も、未知佳は泉田日夏と一緒に帰った。駅まで歩き、そこで別れた。未知佳の家は学校から徒歩で帰れる距離だった。のんびり歩いて二十分ほどである。
 高校は丘の上にあり、家へ帰るには長い階段を下って行くのが近い。この階段の上から町を眺めるのが未知佳は好きだった。
 今日も天気がいい。未知佳は立ち止まってしばらく町を見下ろしていた。
 それから急に気が変わって、坂道を下るルートで帰ることにした。公園になっている森を迂回した下り坂で、すこし遠回りになるが、時々気分を変えてこの道で帰ることもあった。
 坂を下ると、その辺はいつの間にか、古い建物が取り壊されて広い範囲が更地になっていた。新しくマンションでもできるのだろうか。
 そんな中、一軒だけ三階建ての茶色いビルがぽつんと取り残されていた。そこの住人だけが最後まで立ち退きに反対していたという感じだ。たしか以前は産婦人科の病院だったはずだ。だが今では看板もはずされ、窓はベニヤ板でふさがれていた。もう誰も住んでいないようだ。
 未知佳がその建物の前を通りかかったその時、急に強い風が吹いてきた。
 はじめは後ろから、そして前からも。風はすぐにやんだ。今のは何?
 ふと、頭上を見上げると、小さな影がふわふわと左右に揺れていた。どうやら、ビルの屋上から吹き飛ばされてきた落ち葉らしい。未知佳がさっと手を出すと、落ち葉はふわりとその上に着地した。
 その葉はまるで鋏で切ったような正六角形をしていた。枝の側のオレンジから葉の縁の黄色へと緩やかに色が変っていた。その色と形には見憶えがあった。
「この葉は……」
 すぐに記憶が甦ってきた。そう、あの絵だ。あの赤い悪魔像が描かれた絵。悪魔像の左右にそれぞれ奇妙な形の木が描かれていた。右には柳のようなしなった黒い枝に緑の果実がなっている木。そして左には鹿の角のように枝分かれした白い木に六角形のオレンジ色の葉が描かれていたのだ。
 この葉は、その絵に描かれていた葉にそっくりだった。虫に食われたような小さな穴まで同じように思えた。
 ビルの屋上を見上げると、一瞬だけ何か不思議な光が輝いて見えたような気がした。が、あらためて目を凝らしても、何の変哲もない廃ビルにしか見えない。気のせいだったのだろうか。
 未知佳は鞄からノートを取り出すと、落ち葉を挟んでそっとしまった。そして坂道をもと来た方へと上って行った。

 未知佳は、喫茶リオのドアを開けた。
 昨日とまったく同じ姿勢でマスターは、チェス盤上の駒を睨んでいた。
 未知佳は店の奥のあの絵の前の席についた。今日も客はいない。
 お冷を持ってきたマスターが言った。「今日は一人だね」
「ええ」と彼女はとりあえずコーヒーを注文した。
 コーヒーが来るまでの間、彼女はただじっと絵を眺めていた。
「その絵が気になるかね?」
 マスターはコーヒーと一緒にサービスだよと言ってクッキーを一皿持ってきてくれた。
「あの……」未知佳は鞄から落ち葉を取り出し、絵の前にかざして見せた。
 その葉はやはり絵に描かれたものとそっくりだった。絵の中の葉の一つとは虫食いの穴の位置まで同じだった。
「おや、よく似た葉だね」
「さっき、拾ったんです」
「ほう、それは面白い偶然だね」
「偶然……、これが偶然でしょうか?」
「そりゃあそうさ。他に考えようはないね」
「あの、この絵のこと、何かわかれば教えてもらえませんか?」
「ふむ」マスターは少し考えてから言った。「お嬢さんはこの絵のことを知っているんじゃないかね?」
「いいえ、何も。でも、どこかで見たことがある気はするんですけど、どうしても思い出せなくて」
「昨日、この絵を見た時、何かつぶやいていたね?」
「“アシュメラ”って……」
「それはこの絵のタイトルなんだよ。この真ん中に描かれている悪魔の名前らしいんだが」
「私、どうしてあんな言葉が出てきたのか、自分でもわからないんです」
「それは不思議だねえ」
「この絵を描いた人をご存知ですか?」
「うん、この店ができたばかりのころ、よく来てくれたお客さんでね。私がこの壁に飾る絵を探してると言ったら、自分で描いたものでよければ、と言って譲ってくれたんだ」
「その人、画家だったんですか?」
「いや、絵が専門というわけでもなくて、本業は魔術の研究だと言っていたな」
「魔術の……」
「そう、いろいろ多才な人らしくてね。魔術に関する本も書いているらしいけど、難しくてとても素人には理解できないだろうって。あと短編小説が一度文芸誌に載ったこともある。たしか「星への階段」というタイトルだったな。もう、七、八年ぐらい前に病気で亡くなってしまったけどね。遠山光人という名前だよ」

 それから未知佳は二十分ほど、ぼんやりと絵を眺めてから店を出た。マスターは「また絵が見たくなったらいつでもおいで」と言ってくれた。
 未知佳は、ふたたび坂道を下り、あの廃ビルの前にやってきた。
 このビルの屋上から、あの六角形の葉は風に吹かれて落ちてきたのだ。あの「アシュメラ」という悪魔像の絵に描かれたのと同じ葉が。未知佳にはそれが偶然とは思えなかった。だとすれば、このビルの屋上にはいったい何があるのか。屋上へ上ってそれを確かめたかった。
 未知佳はビルの側面にある非常階段の出入り口へ行ってみた。格子状の扉に鎖が巻きつけられて封鎖されている。よく見ると階段側の格子は溶接跡が錆びてぐらついているようだ。彼女が手を触れるとそれはぽろりと外れてしまった。格子が一本外れると、身体を通せるだけの隙間ができた。彼女は左右を見渡し、人がいないことを確かめてから、その空間へ身体を滑り込ませた。あたりはそろそろ夕闇に包まれようとしていた。
 足音を忍ばせながら階段を昇った。屋上に出るドアには鍵はかかっていなかった。未知佳は、屋上へ出た。
 何もない。ただコンクリートで固められた床面が広がっているだけだ。いや、一方の端にレンガ造りの花壇がのようなものがあった。左右二つに分かれていて、中には灰色のアロエが枯れもせずに絡み合うように繁殖していた。
 反対の端に立って花壇を見る。このレンガの花壇と灰色のアロエ、それはたしかあの絵の背景に描き込まれていたのではなかったか。ちょうどこの位置から見て、中央に悪魔像を置いて左右に木を配せば、あの絵とまったく同じ構図になるような気がした。それに花壇のデザインも、レンガの間に小さな白い石のレリーフが埋め込まれているところまでそっくりであるような気がした。
 何とかもう一度、あの絵を見て、この花壇があの絵に描かれたものと同じであることを確かめたかった。だが今からリオへ引き返していたのでは日が暮れてしまうだろう。何とか今すぐに。今ここで、何かが起ころうとしている。そんな予感に彼女は捕らわれていた。
「そうだ。日夏の携帯!」
 彼女は昨日、日夏が携帯のカメラであの絵を写真に撮っていたことを思い出した。未知佳は自分の携帯で泉田日夏を呼び出した。
「もしもし、未知佳?」日夏が出た。
「日夏、きのう喫茶店であの絵、写真に撮ったよね?」
「あんた、まだあの絵にこだわってんの?」
「いいから、その写真、私の携帯に送ってよ」
「いいよ、待ってな」
 携帯を切って十秒も経たないうちにメールが着信した。メールの早打ちが日夏の特技なのだ。
 添付された画像を開くと、液晶画面いっぱいに「アシュメラ」の絵が映し出された。
 やはり背景には、レンガの花壇とアロエが描かれている。絵の中のアロエは抽象化され等間隔にならべられていたが、花壇の形やレンガに埋め込まれたレリーフの位置はまったく同じだった。
 ということは魔術研究家・遠山光人はこの花壇をモデルにして「アシュメラ」を描いたのだろうか。
 画像を見つめていると、携帯の画面では確認できないような細部の記憶が甦ってきた。彼女の座った位置からは絵の右側がよく見えたので、白い石のレリーフは右の二つが魚とクラゲの浮き彫りだったのを思い出した。
 だが、実際の花壇では、右から魚、エイ、珊瑚、ヒトデ、クラゲ、貝という順で配置されていた。彼女の記憶では右から二番目はクラゲのはずなのだが。携帯の画面では浮き彫りの形までは見分けられなかった。
 未知佳はレンガの隙間に指を入れエイのレリーフを掴んだ。そっと引いてみると
抜き取ることができた。レリーフには意外と厚みがあり、立方体の石の上に彫刻されているのだった。他の石を調べてみたところ、固定されて動かないのがほとんどだが、左から二番目のクラゲのレリーフは抜き取ることができた。クラゲとエイ、この二つを入れ換えれば絵と同じ配置になる、そんな気がした。
 彼女は右から二番目にクラゲを、左から二番目にエイを押し込んだ。
 だが、それでどうなるというのか。何も起こるはずはない、彼女はそう思った。
 その時、ふと空を見て彼女は戦慄した。
「空が……、空の色が変わっている!」
 それは見たこともないような色の空だった。グリーンと紫が混じりあったような空。それはあの絵「アシュメラ」に描かれた独特な空の色だった。
 そして、彼女の目の前におぼろな赤い光があらわれた。光はじょじょにある形をとり始め、やがて半透明な悪魔像の姿が見えてきた。左右には六角形の葉をもつ白い木と緑の果実をつけた柳のような黒い木もあった。
 同時に、未知佳の脳裏にはあるイメージが流れ込んできた。車の中でくちづけを交す男女。これはいったい何?
 女は微笑を浮かべ男に声をかけた。その顔を見て未知佳は気づいた、これは若いころの母、万理絵だ。相手の男が誰かはわからない。
 万理絵が降りると男は車を出した。男は厳しい顔つきでハンドルを握り、どんどんスピードを上げていった。
 やがて前方に人影が見えた。それが誰かはすぐにわかった。未知佳の父だ。父は催眠術にでもかかっているかのようにふらふらと路上を歩いていた。
――お父さん、危ない!
 車は未知佳の父を跳ね飛ばしそのまま走り去った。
――この人が、お父さんを殺した……。
 そして、場面が変わった。見知らぬ部屋。ベッドの上で万理絵が男と抱き合っていた。父を車で跳ねたあの男だ。二人の背後の壁には絵が飾られていた。「アシュメラ」の絵だ。
 未知佳にも事情がわかってきた。この男が魔術研究家の遠山光人なのだ。万理絵と遠山は愛人関係だった。万理絵には夫があり娘も生まれていた。嫉妬深い夫、つまり未知佳の父から逃れるために二人は共謀し、殺したのだ。魔術研究家である遠山には催眠術により、ひき逃げのしやすい目撃者のない場所へ被害者を誘い出すのは簡単なことだった。
 未知佳はそれまでまったく知らなかった母の姿を目にした。万理絵は遠山の魔術研究に協力していたのだ。
 次の場面では、遠山は病院のベッドに臥せていた。間もなく死ぬだろうことが自分でもわかっていた。黒魔術の使用が祟ったのだと信じていた。
 見舞いに訪れた万理絵に遠山は告げた「私の死から七年七ヶ月と七日後、アシュメラの祭壇にお前の娘を捧げよ。そうすれば私は復活できるだろう」と。
 遠山光人の死から七年七ヶ月と七日後とは、今日この日ことだった。アシュメラの祭壇とは正しくこの場所だった。
 未知佳が喫茶リオで「アシュメラ」の絵を目にし、今日この場所にたどり着いたのは、彼女が眠っている間に万理絵が囁いた暗示に操られてのことだったのだ。
 はじめ石造として姿を現わした赤い悪魔アシュメラは、今や爬虫類の胴と獣の手足を持つなまなましい実体として動き出していた。
 熱い息が未知佳の顔にかかった。鉤爪のある手が彼女の腕をつかんだ。
 もう逃げられない!

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