2014年5月14日水曜日

星への階段

 魔術研究家の天谷由一は、古書店で貴重な資料を受け取った帰り道、道端で倒れている男を見かけた。浮浪者が寝ているだけならいちいちかまいはしないのだが、その男は妙に天谷の気にかかった。
 第一に身体が大きかった。痩せてはいるが二メートル近い身長があるようだ。服装は、浮浪者らしくぼろぼろの布をまとっていたが、首に巻いているスカーフは目にも鮮やかなブルーで、それはたしかにブルーなのだが、今までに見たこともないような不思議なブルーだった。さらに目を引いたのは髪で、多少長めのぼさぼさの銀髪、磨いた金属のような輝く銀色だった。
 青ざめた肌の色をしている。白人には見えないが、日本人らしくもないエキゾチックな顔立ちだった。
 天谷がその顔を覗き込んでいると、男は不意に目を開けた。灰色の目だ。
 男は、はじめ何か外国語らしい言葉を二言三言つぶやいてから、天谷を見て言った。
「何か、食べ物……、食べ物をくれないか……」
 天谷は黙ってその場を立ち去った。
 しばらく歩くとコンビニがあった。そこで彼はおにぎりとお茶を買った。
 もとの場所へ戻ると、男はまだそこで倒れていた。
「おにぎりでいいか?」と、天谷はビニール袋を差し出した。
「おお、ありがたい」受け取った男はその場で食べ始めようとしていた。
「近くに公園がある。そこで食べたらいい」
 天谷は大男が立ち上がるのを助けてやり、公園まで案内して行った。
 ベンチに座っておにぎりを取り出す。開け方がわからないようなので天谷が剥いてやった。
「あんた、名前は?」天谷は尋ねた。
「ハイレイ」
「ハイレイ……、どんな字を書くんだ?」
「お前の知らない文字だ」
「どこから来たんだ?」
「遠くだ、とても遠く」
「そうか」
「お前の名は?」
「天谷……。天谷由一」
「ユーイチ、か」
「そうだ」
 おにぎりを食べ終えると、ハイレイは身にまとっていたボロ布の下から何かを取り出した。
「ユーイチよ、礼だ。受け取ってくれ」
「礼なんかいらないよ」
「物乞いをしたわけじゃない。正当な代価だ」
「では、受け取ろう」
 ハイレイから手渡されたのは、透明な黄土色のごつごつした小石で首からかけられるような革紐が結び付けてあった。
「綺麗だな。ありがとう」
 天谷が立ち去ろうとすると、その背へハイレイが声をかけた。
「ユーイチ、そんな本をいくら読んでも魔術師にはなれないぞ」
 天谷は、小脇に抱えていた古書店から受け取った稀覯本の包みにちらりと目を落したが、そのまま振り向きもせず歩いていった。

 その夜、おそくまで天谷は新たに手に入れた資料に目を通していた。
 眠りについたのは深夜だ。
 彼は夢を見た。それは異様な夢だった。とてつもなく異様な夢、言葉では言い表せないほどの。
 目を覚ましたのは明け方、まだ暗い時間だった。
 彼は今見た夢が、正常な人間にはあり得ないほど異常なものであったことにすぐ気づいた。魔術研究家の天谷にとって、夢もまた重要な研究課題だった。
 彼は本棚に手を伸ばした。そこには、夢判断や、夢占いに関する資料が揃っていた。だが、彼はどの本も手に取ることはなかった。言葉で言い表せない夢を、書物で調べることはできないのだ。
 その時、彼は薄暗い部屋の中で、何かが光を放っていることに気づいた。
 机の上の小石が、おぼろに黄色く輝いていた。明るくなったり暗くなったり、不規則なリズムで明滅をくりかえしていた。

 朝食を終えた後、天谷は歩いて公園へ行った。
 ハイレイは昨日と同じベンチに座っておにぎりを食べていた。
「どうやって手に入れた、そのおにぎり?」天谷は聞いた。
「買ったのさ。体力さえ回復すれば、小銭を作るぐらいわけはない」
「何者なんだ、あんた?」
「見ての通り……、ま、放浪者ってとこだな。昨日は本当に危ないところだったんだ。無茶な長距離ジャンプで、つい体力を使い果たしてしまってな。お前には感謝している、ユーイチ」
「昨日あんたにもらった石、あれは何だ?」
「あれか、あれは《ハリ湖の石》というものだ」
「ハリ湖の……石?」
「そう、あれのおかげでいい夢が見られただろう」
「やはり、あの石のせいか。普通の人間があんな夢を見つづければ気が狂ってしまう」
「ふん、普通の人間ならな。だがユーイチ、お前は普通の人間ではないだろう」
「ぼくは普通の人間だ」
「ほう、そうかね。では教えてやる。正三角形を上下に重ねて星型にした図形、ヘキサグラムというのを知っているな?」
「ああ」
「それを紙に書いて、あの石の下に敷いておけば、力を封じることができる。さらに図形を書き換えることで夢をコントロールすることもできる」
「そ、それは、どういうふうに?」
「お前は魔術の研究をしているんだろう?」
「ああ」
「なら、知ってる図形でいろいろ試してみればいい」
「そんなことをして危険ではないのか?」
 ハイレイは黙って首を振った。
「な、なあ、あんた……あんたは魔術師なのか?」
「いや、まだ修行中の身だ。お前と同じさ」
「い、いや、ぼくは……」
「どうしたユーイチ、お前も魔術師になりたいのだろう」
「そりゃあ、たしかにぼくは魔術の研究をしている。だ、だけど、信じられないんだ。本当に魔術師が存在するなんて」
「まあ、無理に信じてくれとは言わんが」
「いや、しかしその……何か証拠を見せてくれれば……」
「あの石をやったじゃないか」
「あ、ああ、あの石はたいしたものだ。でも、こう現実に、今、目の前で何か見せてくれないかな」
「何かと言われてもな、おれも使える術は限られているし……。ふむ、そうだユーイチよ、ひとつ仕事を頼まれてくれんかな。そうすれば、いくらでも技を見せてやれるんだが」
「ああ、いいよ、出来ることなら」
「べつにそう難しいことではないはずだ」
「うん、何だい?」
「ツノマ・カツロウという人物を知らないか?」
「いや、知らないな」
「彫刻家でな、1年ほど前に自殺したらしい」
「まあ、調べればわかると思う」
「で、そのツノマという男がな、自殺する直前に何か本を読んでいたはずなんだが、できればその本を手に入れてもらいたい」
「本を……、タイトルがわかればいいのかい? 同じ本が買えると思うけど」
「いや、ツノマの持っていた現物が欲しい。どのみちそこらの書店で買える本ではないはずだ」
「ふうむ、それは難しいかもしれないな。まあ、やってみるよ」

 天谷は一度自宅へ帰り、画廊経営者に電話をかけた。
 天谷は以前、魔術と夢の理論の応用で絵を描いたことがあり、その時に知り合った男だった。ツノマ・カツロウについて尋ねるとすぐに反応があった。若き天才彫刻家として将来を嘱望されていた人物だったという。角馬克郎と書く。享年二十六歳。今は克郎の妻だった耀子という女性がアトリエを管理しているらしい。
 角馬耀子へ電話をかけ、アトリエを見学する許可をもらった。
 ガレージからミニ・クーパーを出し、アトリエのある角馬家へ向かった。
 大学時代、天谷は物理学を学んでいた。それが伯父の遺産を相続したのを機に、大学も辞めてしまい一人で好きな研究をすることにした。はじめは異端科学と呼ばれる領域だった。やがて魔術の研究に没頭するようになった。以来、友人も恋人も作らずに一人で研究を重ねてきた。いつの間にか三十をすぎて、自分にはもっと他にやるべきことがあるのではないかと思うこともないではなかった。
 しかし、あの男……ハイレイ。あの男は本当に魔術が使えるのだろうか。
 昨夜は確かに異様な夢を見た。それがあの《ハリ湖の石》と称するもののせいだとしても、夢はしょせん夢にすぎない。
 だが、現実に、本物の魔術を目の当たりにできるとしたら……。

 角馬家は高級住宅街を見下ろす丘の上にあった。緑豊かな庭に囲まれて建てられていたのは、一見、立方体を積み重ねただけのようで、よく見ると芸術家の住居らしく細部まで凝った造りの建築だった。
 角馬克郎の未亡人耀子は黒いワンピースに銀のネックレス、黒い髪は腰まで届くほど長く、前髪が片目を隠していた。年齢は二十代の半ばに見える。化粧も薄く悲しげな目つきをしていて、未だに喪に服しているようだが、あるいはもとからそんな女性なのかもしれない。
「どうぞ、こちらへ」とかすれた小声で言って、アトリエへ案内してくれた。
 そこは南向きの壁と天井の半分がガラス張りの明るい広間で、黒い木の床の上に大きな白や黒の大理石の彫像がいくつも並べられていた。人狼や人魚、ハーピィやミノタウロスといった半獣半人のモチーフを角馬は好んでいた。それらは一見、重量感のあるリアルな造形だが、よく見るとどの彫刻もどこかしら大胆に歪んでいて、まるで異次元に迷いこんだような気分にさせられた。
 夭折した若き天才という評価は決して過大なものではなかった。これらの作品を見ろことができただけでも来た甲斐はあったと天谷は思った。
 ゆっくりと彫像を観賞した後、天谷は尋ねた。
「あの、つかぬことをうかがいますが……」
「はい?」
「角馬克郎さんですが、その、亡くなる直前に、何か本を読んでいませんでしたか?」
「ええ……」それだけ言うと、耀子はアトリエの隅へ歩いていった。
 観葉植物の鉢が置かれたテーブルから何かを手にとって戻ってきた。
「これですわ」
 彼女が天谷に手渡したのは白い表紙の薄い本だった。
 タイトルは「地底の饗宴」で、九頭川竜之介というのが作者名らしい。ぱらぱらとめくってみたところ短編小説を同人誌にしたもののようだ。
「それが目当てなら持って行ってください」冷たい声で耀子は言った。
「いいんですか?」
「ええ、その本、何だか気味が悪くて。いつ、どこで手に入れたのかは知りませんけど、克郎さんは、それを読んでからどこか様子がおかしくなって、終いには自殺を……」
「そうですか、それは……」
「まるで『黄衣の王』のよう……」独り言のように耀子はつぶやいた。
「え、チェンバースの?」
「そう、その名をご存知なら、お解りでしょう。そんなものは読まずに捨ててしまった方が身のためだということが」

 天谷は礼を言って角馬邸を出た。
 目的の本は思いのほか簡単に手に入った。あらためて見ても、やはり素人が作った同人誌のようである。ハイレイは「書店で買える本ではない」と言っていたので、どんな魔道書かと思っていたが、同人誌ならたしかに「そこらの書店」では買えない。それにしてもこれが『黄衣の王』とは。『黄衣の王』というのはロバート・W・チェンバースの怪奇小説の連作に登場する忌まわしい戯曲のことである。
 帰る途中、レストランを見つけてミニを止めた。そこで昼食を摂ることにした。料理が来るのを待っている間に『地底の饗宴』を読み始めた。まさか読んだだけで呪われるようなことはないはずだと魔術研究者は判断した。
 短編が一編だけなので、食事の間に読み終えてしまった。とくにどうと言うこともない小説だ。九頭、竜という文字を含む作者名を見たときから想像していたが、やはりこれはいわゆるクトゥルー神話に属する作品で、それらしい用語が頻出していた。H・P・ラヴクラフトやC・A・スミスの小説なら天谷も好んで読んでいた時期があった。だがこの「地底の饗宴」はそんな雰囲気でもなく、テレビの特撮ドラマをパロディにしたような、言わば怪奇アクション小説だった。
 この小説が原因で角馬克郎が自殺したとはとても思えなかった。耀子が知らないだけで自殺の原因は他にあったのではないか。しかし、だとすれば、なぜハイレイはこの本を手に入れるよう求めたのか、それが疑問だった。
 その後、例の公園に寄ってみた。若い母親が子供を遊ばせているだけで、ハイレイの姿はなかった。別にここで落ち合うと決めていたわけではないが、他に探すあてもない。
 天谷は自宅へ帰った。午後は資料の整理などで過した。
 夕暮れ時、ふたたび公園へ行った。
 やはりハイレイはいなかった。そこには浮浪者が三人たむろしていた。一人は腕枕をして地面で寝ていた。他の二人はベンチでおにぎりをかじりながら缶ビールをちびちびと飲んでいた。浮浪者のわりにはやたらと大量のおにぎりを持っているのが気になって声をかけてみた。
「あの、ここで銀の髪の、背の高い男を見かけませんでしたか?」
 二人の浮浪者は顔を見合わせ、一人が答えた。「ああ、見たよ」前歯の欠けた男だ。
「気前のいいあんちゃんだ。ビールとおにぎりおごってくれてよ」もう一人の髭面のほうが言った。
「で、その人はどこに?」
 二人はまた顔を見合わせた。
「連れて行かれたよ」と歯の欠けた男。
「ああ、おれらと一緒に飲んでたんだがな」と髭面。
「えっ、連れて行かれたって、誰にです?」
「ありゃ、市役所のやつらだろ。おれらを施設に入れて働かせようとしてるんだ」歯のかけた男が言った。
「いや、ちがうね。あれは製薬会社だよ。あのあんちゃんは人体実験に使われてたんだ。だから、髪の色とかおかしかっただろ」髭面が言った。
「無理矢理連れて行かれたということでしょうか?」
「いんや、はじめは無理に引っぱって行こうとしてたけどな。二人組の男がな。あんちゃんが抵抗して、しばらくぼそぼそ何か話し合ってから、最後にはあんちゃん自分から車に乗っていった感じだったな」と歯の欠けた男。
「うん」と髭面はうなずいた。
「車と言うのは、どんな車でした?」
「黒いバンだったな」
「ああ、真っ黒だった」
「何かマークとか書かれていませんでした?」
「いいや、何も」
「だから真っ黒だったって」
 その時、寝ていたもう一人の男がかすれた声で口をはさんだ。「あれは市役所でも、製薬会社でもねえぞ」
「何かご存知なんですか?」天谷は尋ねた。
「あれは宗教だよ」
「えっ、宗教!?」
「ああ、おれは見たんだ。車の後ろに、小さなステッカーが貼ってあった。黒地に金の線だからあまり目立たなかったが、あれは何かそういう団体のマークだった気がする」
「それは、どういう?」
「人間の目みたいな図形の周りをS字の三角形が囲んでいるマークだった」

 天谷は自宅に帰って資料を調べた。
 魔術研究家である彼の部屋には宗教関連の資料も揃っていた。
「目の周りにS字の三角形」天谷自身もそのマークには見憶えがある気がした。
 資料のページをめくっていくと、そのマークを見つけた。
《黄金波動教》という団体のものだった。その教団に関する説明によると、荒波金太郎なる人物を教祖に1988年に設立。1995年頃には、過激な洗脳や、強引な献金要求が問題になるも証拠不十分で不起訴に。その後も違法すれすれの黒い噂が絶えないとある。本拠地とされる住所は天谷の住居と同じ市内だった。
 ハイレイは危険な団体と知って付いて行ったのだろうか。
 天谷はガレージからミニ・クーパーを出して、教団の本拠地へ向かった。
 やたらと広い駐車場の奥にその建物はあった。
 日没直後の暗紫色の空の下、とげのある角ばった茸のような建築物が照明の中に浮かび上がっていた。いわゆる帝冠様式というのか、洋風のビルに日本の城のような屋根が載せられていた。屋根だけが不釣合いに巨大だった。
 駐車場には自由に出入りできた。乗用車が数台まばらに停められていて、奥の片隅には黒いバンが見えた。その近くに天谷はミニを止めた。
 車の中から周囲の様子をうかがった。監視カメラがあちこちにある。
 ダークグレイのスーツを着た男が近づいてきた。天谷はドアを開け車から降りた。
「あなたは、うちの信者ではありませんね?」男が言った。スーツの襟には金色の三角形のバッヂをつけていた。黄金波動教のマークが彫刻されている。
「ええ、知り合いがこちらに来ているんじゃないかと聞いたものでね」
「知り合い、と言いますと?」
「ハイレイという名です」
 その名を聞いた途端、男の顔に緊張が走った。
「少々お待ちください」
 男は建物の方へ駆けて行くと、出入り口の横のインターフォンで会話し始めた。やり取りがしばらくつづいた後、こちらに戻ってきた。
「失礼しました。どうぞお入りください」
「ハイレイはここにいるんですか?」
「ま、とにかく中へどうぞ」男は、まるで天谷が逃げ出すのを心配しているかのように、体を近づけ背中を押すようにして建物の中へと導いていった。
 赤い絨緞の敷かれた廊下を進んで、奥にある一室へと案内された。
 その部屋も真っ赤な絨緞が敷き詰められていた。壁は白い。窓はなく、部屋の奥には鳥居が設置され、その向こうには台座に載せられた金色の球体があった。
 応接用の向かい合わせのソファーの一方に、艶のある紺色の背広を着た男が腰かけていた。肩幅が広く、大きな顎の男だった。オールバックにした黒い髪は油で光っていた。
 案内の男は「お連れしました」と言って深々おじぎをすると、そそくさと出て行った。
 ソファーの男が天谷を見た。眼光は鋭く、眉毛も太い。
 この男の顔は、玄関に飾られた肖像画で見た。同じ肖像画がこの部屋の壁にも掛けられていた。
「まっ、掛けたまえ」
 天谷は勧められたソファーに腰を下ろした。
「私が、荒波金太郎だ。君は?」
「天谷由一といいます」
「何をやってる?」
「魔術の研究を」
「ほう、で、少しは使えるのかね?」
「いや……、ただ研究しているだけで……」
「ふん、そりゃそうだろうな。だが、なぜお前はあのハイレイのことを知っている?」
「それは、ただ道端に倒れていたところを助けただけで」
「何だ、そんなことか」そう言うと、荒波は天谷の思考を読み取ろうとするかのように鋭い目を向けた。「ふむ、お前、ハイレイから何かをもらったな?」
「えっ、あ、ああ……」
「隠そうとしても無駄だ。嘘をつけば私にはわかる」
「いや、その……」
「そうか、石か、石をもらったんだな……。《ハリ湖の石》……そうだな?」
「えっ、え、ええ」
「《ハリ湖の石》とはな。あれはお前のような者が持っていても使いこなせんだろう。私に譲りなさい」
「い、いや、そういう訳には」
「君は事の重大さがわかってないのだろう。あれには日本の未来がかかっていると言っても言い過ぎではない」
「あの石がそんなに……」
「そうだ。あの石をこの荒波金太郎に譲ると、今すぐそう言いたまえ」
「いや、断る」強力な暗示に逆らうように天谷は言った。
「ふん、私に逆らいつづけることができるかな。何なら金を払ってもいいぞ。いや、お前の望みは金ではないな。……そうか、魔術か。ならば、私の弟子にしてやってもいい。そうすれば、他人を思い通りに操れるようになる。どうだ」
「いらない……そんな力……」
「馬鹿なやつめ。抵抗しても無駄だということがわからんのか」
「う……ううっ」天谷の精神は絶望的な徒労感に侵されていった。
「さあ、あの石を譲ると言いなさい。そうすればすぐ楽にしてやる」
 もう、だめだ。天谷がそう思った時、急に重石が取りのけられたように気分が軽くなった。
「うわっ、な、何だこれは!?」荒波が叫び声をあげた。驚愕に目を見開き、両手で頭を抱えた。「ぐっ、うぐ……」
 教祖は白目を剥き、口から泡を吹いて、ソファーの上にうなだれた。
「な、何が起こったんだ?」天谷は呟いた。
 しばらく、静まり返った部屋で茫然としていると、廊下のほうから人が争うような物音が聞こえてきた。そして叫び声。
 ドアが開いた。
「よう、迎えに来てくれたんだな」そういって姿を見せたのはハイレイだった。「いやすまなかったな、帰ろうと思えばいつでも帰れたんだが、ここらの宗教団体を見学するのもいいかと思ってな。さあ、帰ろうぜ」
 廊下には黄金波動教の信者らしい男たちが何人も倒れていた。

 助手席にハイレイを乗せて天谷はミニを走らせた。
 真夜中の公園に到着した。中には誰もいない。
「ところで、例の本は手に入ったか?」ハイレイが聞いた。
「ああ」天谷はグローブボックスから同人誌『地底の饗宴』を取り出した。「これでいいのか?」
「うん、それでいい。魔術を見せる約束だったな。時間もちょうどいい。今見せてやるよ」
 ハイレイは植え込みのところへ歩いていって、昼のうちに隠してあったらしい何かを取り出してきた。そして天谷が手渡されたのは四つの小物で、電子部品、赤いプラスティックの欠片、割れた鏡、木の根の切れ端、そんなものだった。
「ライターを持ってるか?」ハイレイが聞いた。
「ああ」
「じゃあ、それを持ってあの滑り台に昇ってくれ」
「滑り台に……」
 天谷は滑り台の階段を昇った。
「よし、そこの真ん中に本を置いて、周囲にさっき渡した物を並べるんだ」
 指示どうりに天谷は『地底の饗宴』を中央に置き、その周囲に四つの小物を適当に配置した。
「じゃあ、ライターで本に火をつけるんだ」
「え、燃やしてしまうのか!?」
「そうだ。火がついたらすぐに降りてきてくれ」
 天谷は本を手にとって火をつけた。炎が燃え広がるのを確認すると、その場に置いて階段を降りた。
 ハイレイの横に立って滑り台を見上げると、オレンジ色の炎が明るく輝いている。
 ハイレイが手をかざし、小声でつぶやくように呪文を唱えた。
 すると、炎は眩しいほどの光を放った。
 天谷は思わず目を背けた。目蓋を閉じていても光の激しさが感じられた。
 しばらくしてハイレイが言った。「見ろ、ユーイチ」
 目を開くと夜空の眺望が一変していた。巨大な惑星が浮かんでいる。木星に似た縞模様があるが、色は鮮やかな紫だった。その手前をライトグリーンの衛星がゆっくりと横ぎっていく。さらに遠方にも見たこともない赤や黄の惑星が見えた。
 そんな星々の中へ、一筋の階段が伸びていた。地上の滑り台の階段が延長され、行き先がかすんで見えないほどの彼方までつづいていた。
「こ、これが……」
「そう、これが魔術だ。では、おれは魔術の世界へ帰るが」
 ハイレイは星へとつづく階段に足をかけた。数段昇った所で振り返り、天谷を見た。
「ユーイチ……お前も一緒に来るか?」
 行きたいと天谷は思った。だが彼の全身は底知れぬ畏怖の念に打たれて震えていた。とても足を踏み出すことはできなかった。
「だめだ、とても無理だ。あんたについては行けない」
「そうか。お前には世話になった。じゃあな、また会おう」
 魔術師は階段を昇って行った。見る見るうちにその後姿は遠ざかり、小さくなっていった。それとともに異様な星々もかすみ、やがて消えていった。
 天谷は深夜の公園で一人、いつまでも暗黒の夜空を見上げていた。

0 件のコメント:

コメントを投稿